世間知らずな話

2013年5月11日 (土)

老人手帳

論評に対して反論を試みるのではなく、私が世間知らずなために何か疑問が湧き上がったことをとりとめなく書きとめる「世間知らずな話」。

伊藤和子さんが「女性手帳」に強い違和感を感じる、と書いていたので、読んでみた。なぜ読んでみたかと言えば、私も強い違和感を感じているからだ。

論評はざっくり分けると2部構成となっていて、国家の上から目線について、ざっくりと言えば前半は社会問題を解決しないで女性に自覚を求めることについて、後半は個人の生き方に国家が干渉しようとすることについて。

私が抱いていた違和感は、まさにこの後半の部分であった。「まして、適齢期を啓蒙して、「晩婚・晩産化に歯止めをかける狙い」というのはいったいどういうことなのか? 職場で上司が実施したらセクハラに該当するであろうことを国が行って良いのか?」  そのとおり!セクハラだよ。「メタボ健診」とか、「後期高齢者医療制度」と同じ発想だと思う。

ただし、前半部分については、違和感の原因に私はさらに違和感があった。「少子化は決して、女性の意識の問題ではない。男女ともの問題であるし、もっといえば社会の問題である。」 そのとおり。

「女性が子どもを産み、育てづらい社会の責任は政治にあるのだから、国こそ責任を感じて、根本にある社会問題を解決すべきなのに、その責任を棚に上げ、女性たちに責任を転嫁して、女性たちに産み育てる自覚と責任を痛み入らせて、問題を解決しようなんて、まさに本末転倒である。」

…ここなんだけど、育てづらい社会の責任は政治にあると言っていいのだろうか。そんなに「国」と「政治」を一緒くたにして他者化して、あなたが悪いんだから、あなたが解決すべき、と言っていいのだろうか。
たぶん伊藤さんは、いやいやそうではなくて、そんなことを言う立場にはないでしょう「国」は、ということがおっしゃりたいのだろうと思う。無責任であること、本末転倒であることに重点が置かれているのだろう。

「少子化の原因は今の社会にあることは既に明らかではないか」そのとおり。
待機児童を速やかになくさないと(保育の質を下げないで)、女性たちは仕事に復帰できない。

「多くの女性たちは、非正規・不安定雇用に従事していて、育休も取れないような職場環境に置かれている。非正規・不安定雇用についている厳しい規制をかけて、働きながら子育てが安定してできる生活を保障しないといけない。」 …。「いけない」けれど、それが少子化問題解決の必須条件だとは思わない私には、よくわからない。

「男女ともに若い世代が抱える将来不安と貧困を解消しない限り、子どもを産むのは難しく、雇用と貧困をめぐる状況を解決しないといけない。」
将来不安はわかるのだけれど、貧困という言葉を使われると、違和感がある。たぶん、今の日本で結婚をしたり、出産・子育てができるような経済条件がないことを指しているのだろう。私は、もし求人倍率と賃金水準が上昇し、バブル時ぐらいの状況になったとしても少子化問題は解決しないと思っているので、理解できない。因みに将来不安はわかると言っても、そのことと少子化問題との因果関係についてはわかりません。

「諸外国・特にヨーロッパ諸国に比べてあまりに高すぎる日本の教育費をどうにかしないといけない。 」まあ、あまりにもよく言われる話なので水掛けになるけれど、諸外国・特にヨーロッパ諸国に比べてあまりにも低すぎる日本国民の社会負担をどうにかできるならばどうにかなるんじゃないでしょうか。「埋蔵金はなかった」って民主党も言っているし。他国比較は容易じゃないですよ。

だから、直後に「ヨーロッパ並みの従事した(充実した?)子育て支援・少子化対策を包括的に手厚く実施しているならともかく、そうしたことをきちんと実施もせずに、『少子化は女性の責任』と言わんばかりの政策に違和感はつきない。 」手厚く実施していても、違和感はつきないのですが、ようするにそんなこと国から言われたくはない、ということに解釈します。

ここから以下は伊藤さんの論評から離れる。
結局、一緒にしてしまうといけないかもしれないけれど、「女性手帳」とか「メタボ健診」とか「後期高齢者医療制度」とかはセンスの問題かもしれない。センス悪い。差別意識も含めて、政治家や官僚のセンスが悪い、古い。だから馬脚が現れる。
ただ私は、違和感がありながらもこれまでと違い、政府の問題意識は伝わってくる。社会保障費の増加をなんとかしなければいけない、とか。
蛇足だが、「国民総背番号制」というのはマスコミの造語かもしれないが、「マイ・ナンバー」とか言い換えたあたり、少しはセンスに変化の兆しもあるのかもしれない。

人はどんなときに結婚したいとか、子どもが欲しいとか思うのだろう。深淵なる問題だ。
金がないから、それは一理ある。私は金がないのでフェラーリが欲しいとは思わないし、最近では若者に車が売れないそうだ。しかし、金があるから結婚しようとか、子どもを作ろうとか、そんなふうには思わないだろう。
晩婚化が不妊の可能性を高め、晩婚化の原因は女性が生活するために働かなければならないからで、「そこんとこよく考えて働けよ」なんて国から言われたくないというのはもっともなのだ。そうすると、女性が出産の可能性を低めながらも、働かなければならない状況をなんとかするべきである、という主張になるのだけれど、センスの問題がじゃまするなら、このようにまじめに「女性手帳」に応戦する必要はないのかもしれない。
ただ、女性は晩婚化や少子化の問題を制度の問題と思っているのだろうか。私は出産の経験がないのでわからない。欧州なみに充実した制度があれば、私だって20代で結婚して出産して子育てするわ、と思っている人が、本当にたくさんいるのだろうか。

男の立場から言うと、私が結婚適齢期の頃と比べて、今のほうが結婚、だけではなくて、女性と交際することよりもはるかに楽で、リスクもコストも少なく、魅力的なものがいっぱいある。ひょっとしたら女性もそうなのでは?経済的なもの、制度的なものが阻害するのであれば、何とかそこを乗り越える方法がありそうなものなのだが、結婚自体に魅力がないのならば、議論が成立しない気がする(「経済成長」と、「愛の結晶」)。結婚が、人と直接接触しないメディアを越えていくのは、結構難しいのかもしれない。

少子化についてはどうだろう。個人的な経験は本当にサンプルとはなり得ないが、子どもを持つのかどうか、不妊治療を続けるのかやめるのか、あるいは何人子どもを持つのかなどは…基本的には2人の意見が一致しなければならない、と思う。これだけ価値観が多様化する中、夫婦といえども、価値観の一致をみることは容易ではない。例えばうちの夫婦がなぜ子どもが少ないのか、と問われても、「産むのは妻ですから」としか答えようがない(「育てるのも」などと言うつもりは毛頭ない)。
将来の不安や貧困が理由ではないのが幸いではあるが、2人以上の子どもがいる世帯が貧困に見舞われない家族像というものについて、みなさんどのようなビジョンをお持ちなのだろうか。ビッグダディのような絵なのだろうか。私は、あれは貧困とは言わないと思うのだけれど…。

今の若い人は、結婚にどんなビジョンを描いているのだろう。いや、ビジョンというよりファンタジーに近いかもしれない。少子化が進んで国家を支えきれなくなる前に、年寄りは「老人手帳」に書いてあるとおり、できるだけ長く働いて、「安楽死法」に基づき、自分の死の時期を決めてさっさと死ぬ、という時代がそう遠くない将来来るかもしれない。世間を知らない人間の妄想なんて、落ち着くところはこんなところかな。

あ、ちなみに「安楽死法」はヨーロッパの一部の国から、「さっさと死ぬ」は麻生財政金融担当大臣から引用しました。

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