まったく関係ない話

2019年2月 9日 (土)

「カメラを止めるな!」を止めるな!

Kametome                                ©ENBUゼミナール

 
「カメラを止めるな!」に関して言えば、3月1日に日本アカデミー賞が放送、翌日にスピンオフが配信、そして翌週にいよいよ地上波で放送されるという絶妙のタイミングで、たぶん昨年の夏以来2度目のパンデミックが起こるかもしれません。
 
ずーっと考えているのだけれど、なんでこんなにこの映画が面白いのか。
 
ちょっと見始めると、結局最後まで見てしまい、何度も何度も見てしまう。
「アツアツポイント」が本当はどこなのか、正直よくわからない。
 
最初の7分、本当に退屈だった。でも2回目は、見入ってしまう。
まったく同じ映像が、まったく異なって見えてしまうのはなぜなんだ。
 
たぶん、まず何より、コメディ映画としてよーくできているんだと思う。
 
そしてひょっとしたら、「よくわからない」ところがアツアツポイント、なのかもしれない。
 
ホラー映画って、ひとつ間違えると笑えてしまえるので、そのあたりを逆手に取ったのは、たぶん「悪魔の毒々モンスター」あたりからなのだろうか。 
監督は自ら、「この映画を家族愛だという人も、仕事愛だという人もいるけれど、それは、僕自身それを出そうして制作したわけじゃないので、見た人が感じ取ってくれればいい。ちょうど映画の中で、『出す』んじゃない、『出る』の!と言っているように」とどこかで言っていた記憶がある。
 
そのために、ポイントでのカメラワークや演技、音楽まで、何度も何度も「カメラを止めて」、演出を決めている形跡が見られる。ワンカットなんて問題外。でも監督は、そこまで練り上げていながら、絶対にワンカットの(笑いの)疾走感を手放そうとしていない。
 
これは絶対に舞台ではダメで、映像表現でしか成しえないことを限られた予算、スタッフ、時間をフル活用して仕上げている(ことが伝わってくる)。
ともかくこの映画、情報量が多すぎる。ポイント(ボケの数)が多すぎる。だから何回見ても、違うところで笑える。その笑えるポイントが全部計算されている。
 
この映画の面白さを、単に「伏線回収」と言ってしまうことに僕は多少違和感があって、伏線回収なら、一度わかってしまうとそう何度も見ようとは思わないと思うのだけれど、この映画がそうではないのは、もっと情に働きかける何かがあるみたい。
 
映画がドラマを見せるものだとしたら、例えばカメラマン(視点)は4人いる。
 
劇中劇→細田さん
劇→谷口さん
映画→本当のカメラ(曽根剛さん?)
リアル→われわれ、メイキングを撮った人
(もっと言うと、最近、「カメ止め」を見てる自分、を見てる自分もいる)
 
ここまでドラマを複雑にされると、人間は鈍感で、もう何が何だかわからない。
アテ書きだということで、キャラクターと俳優さんの境界もわかりづらいし、役名も実名をなぞっている。俳優さんになじみがないことは、この場合、境界を作らないことに功を奏している。
 
先回りすると、公開以降のSNSや舞台挨拶など、スタッフからわれわれへのコミットが半端ない。このことも大きく成功につながっている。 
もう、細田さんと本当の細井さんと、舞台の上の細井さんの違いなんかわからない。だから「カメ止め現象」まで含めて「カメ止め」になってしまいかねない。
 
上田監督は、漫才の映画化に成功できた人なんじゃないだろうか。ネタ(は原案があったかもしれないが)、無数の笑いのテクニック、テンポ、間、アクション、声の大きさに至るまで。
 
ただそれだけじゃない。 
ここからがこの映画の恐ろしいところで、ここまでパンデミックが広がったのは、「絶対にストーリーを話すな」と聞いて、見た人の期待を裏切らなかった。そして、見た人は「絶対に見てね!ストーリーは話せないけど…」とまた煽る。
 
ストーリーもよくわからない。でも実はこの映画は巧妙で、ストーリーなんか事前にぜーんぶ知ってたとしても、面白い。なんでこの映画、もっと楽しめる方法を人に勧めたり、勧められたりしなきゃいけないのか?

 
あとフィクションでありながら、同時にドキュメンタリーを見せられている感覚。
M-1が漫才コンテストでありながらドキュメンタリーで、笑いながらそこに感動するのに近い感覚がこの映画にもあるけど、M-1が漫才の4分間とその前後の境界がはっきりしているのに対し、この映画にはそれがない。
 
ネットには、この映画を「文化祭」と揶揄するような言い方もあるが、内輪受けには終わっていない。単なるメイキングや特典映像ではない。
もし文化祭なら、見てる僕らもパンデミックを作っている、大きな内輪受けなのかもしれない。相互にすごい愛情を感じるのはなぜなんだろう。
 
ほら、こんなに長くなってしまいました。
上田監督の技術と、「よくわからなさ」による感染が、この映画の魅力なんだろうな。
 
感染が終わるのは、境界がはっきりしてしまうことだとしたら、「カメラを止めるな!」を止めるな!
(スキャンダルが出ないように、ヨロシクでーす) (2019.2.9)

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2012年7月21日 (土)

アレルギーの免責を求めよ

今月から、ツイッターを始めてみた。でも、基本的につぶやくことなんか、始める前にもなかったので、たぶん早々に撤退することになりそう。どうも自分には尺が足りないみたい。タイムラインを眺めていること自体は楽しいんだけどね。

家族にアレルギー体質の者がいると、これまで気にもとめなかったようなことに敏感になる。例えばミックスジュースに牛乳が入っているのかとか、カレーに小麦粉が入っているのか、とか。食品なら代わりに食べてみると多少はわかるし、最近はアレルギー表示が義務付けられているのでたいていは確認することができる。
驚いたのは市販薬で、風邪薬に卵や乳が使われていることがあるなんてまったく知らなかった。

こういった状況は、ここ10年でずいぶん様変わりして、デパートやスーパーはコンプライアンスからか、量り売りしているような惣菜でも商品札の辺りに小さい赤や黄色の丸いシールで特定原材料の表示がされている。

困るのは中途半端なコンプライアンスと、外食だ。
さっきの表示シールで言えば、どの料理もカラフルなシールがベタベタ貼られ、原材料から可能性があるものは全部、というか表示が義務付けられているものは、たいして検証もなく表示されているように思えるものもある。これはもう、アレルギーに対する“免責″だ。。「嫌なら食うな」という空気感バリバリだが、「嫌でも食えねえよ、バカヤロー!」と思っている。

エゴに受け取られるかもしれないが、卵を使わない玉子焼きを作って売れ、とか言っているのではない。あなたがたにとってアレルギーは、自分の店に責任のない食中毒みたいなもので、シールは免責かも知れないが、われわれに取っては、食べることができる目安なのだ。山ほど貼られたシールはもはや“目安″ではなく、「嫌なら食うな」メッセージなのだ。
ホラー映画の宣伝で、“心臓の弱い方は″の免責と異なるのは、われわれはあのシールを標としているのだ。

外食の場合、ホームページにアレルギー表示を行っているところも増えたが、人気店は、ほぼない。そんなときは、メールで問い合わせることになる。

「はじめまして。今度○○に行くことになり、貴店にぜひ、立ち寄らせていただきたいと思っているのですが、卵や乳製品にアレルギーを持っております。そちらさまの○○に、卵や乳製品はお使いになっておられますでしょうか。
たいへん不躾ではございますが、ご教示いただけましたら幸いです。」

以下は、この同じ内容の質問メールに対する回答例で、ピンとキリを掲載してみる。

「○○様

ご質問有り難うございます。
当店の○○についてですが、
乳製品、玉子を一部使用しております。また、その他のメニューに
ついても乳製品、玉子等を使用しております。
誠に申し訳ありませんが、アレルギーの事を事前にお知らせ頂いた
お客様に、乳製品や玉子が微量であっても使用している商品をお出
しする事は出来ません。

もし、万が一の事があっても当社でも責任を負いかねますので、ご理
解の程宜しくお願いいたします。
ご期待に添えられない回答となりましたが、宜しくお願いします。

楽しい○○旅行をお過ごし下さい。」

アレルギーのない方は、このメールのどこがおかしい?とお思いかもしれない。客からすれば、アレルギー症状が発症するリスクを回避し、店も責任を問われるリスクを回避するのだから、双方ともにベストの解決策だ、そうお思いだろうか。
われわれからすれば、また、今流行りの“めんどくさい″客扱いされてしまった、そう感じる。そんな店に難癖つけないで、とっととアレルギー表示のある店で食えよ、と言う人もいるかもしれない。

食べられないことは慣れっこで、もちろん上の店で食べるつもりはない(し食べられない)が、食べられないこととは別に、二重につらい思いをすることになることが、わかっていただけるだろうか。
「お知らせ頂いたお客様に、お出しする事は出来ません」というのはどういうことだろう。ホラー映画ですら、「お見せすることはできません」と言われることはないはずだが。

実はこのお店、○○料理の店であり、家族は○○にはアレルギーがなく、しかも、この店がメインで出している料理は、市販のものはいつも食しており、この店独自で加えている食材や調味料があれば、念のため確認したいとメールしたので、卵アレルギーなのに玉子焼き屋に食べられるものがあるかと尋ねたわけではない。対応してくれと言ったわけでもない。
「あなたには商品をお出しする事はできない」と言われたことがありますか。

上記は一例であるが、実はこの手の対応はこれまで何度かあり、病院の入院食ですら、こういった対応をされたこともある。
そうかと思うと、こちらが恐縮するぐらいの対応をしていただくこともある。

「○○様

お問い合わせありがとうございます。
○○と申します。メールの内容ですが、○○の味付けに関しては下味程度に塩、こしょうをしておりますが、バターなどの乳製品は使用しておりません。ただ、他の料理には多数使用しています。

例えば、
<○○をご注文された場合>
スープ・・・牛乳を使用
サラダ・・・マヨネーズに手を加えて使用していますので、卵を使用。(ドレッシング抜きでの注文は可能)

ステーキ・・・豚カツ(衣に卵使用)を揚げる油と同じ油を仕上げに少し振りかけて使う場合があり、その油が鉄板にしみている可能性があり
 付け合わせ玉ねぎ・・・アレルギーに関わるものはなし
 付け合わせポテト・・・豚カツ(衣に卵使用)を揚げる油と同じ油で揚げたもの

ライス・・・アレルギーに関わるものはなし
もしくはパン・・・卵、バターを使用

と、なります。
その他にも、
(略)

お客様のご希望により、省くことができる料理もあれば、できない料理もあります。
注文される料理が事前にお決まりでしたら、このメールのやり取りで返事は可能ですが、来店してから料理を決める場合はその時に、出来る限り対応させていただきます。

アレルギーをお持ちのお子様が最近は多く、こちら側も今後の対応方法をしっかりしていかなければならないと同時に、親御さんの気苦労を少しでも和らげることができたら、、、と思います。避けることのできない食事でのお店選びは大変でしょうが、楽しい思い出が作れるように願っております。

ぜひ、○○を楽しんでいってください。」

涙なくしては読めない。さっきの返信との振り幅は極端だけれど、これまで中間はほぼなく、先の対応か、あるいはこちらに近い対応のどちらかである。
飲食店がすべからくこうあるべきだ、なんて思ってはいない。めんどくさいことに違いはない。
結局何が違うのかと言うと、われわれが必死で食べられるものを探していることをわかろうとしてくれる。気持ちを汲んで、出来る限りのことを一緒に一生懸命探してくれる。結果食べられるか食べられないかは仕方がないのだけれど、本当に頭が下がる。

いつも、木で鼻をくくったような返信をいただくと、礼を述べたあと、今後私のように、あなたのお店でぜひ食事がしたいと思うアレルギーの人がまたいるかもしれないことを、ぜひ覚えておいて欲しいと伝えるのだが、たいがいそういうメールには返信もないので、今回ブログに両方を紹介してみた。ひょっとしたら飲食業に携わる方がご覧になって、何かお考えいただくこともあるかもしれない。そのほうが、特定の店とやりとりすることよりも有意義に思える(まあ誰も見てないけど)。

結局振り幅の大きさ、中間がないというのは、人さまざまな捕らえ方があるのではなくて、ただ無理解が横たわっていることに過ぎないからだと思う。それでもなお、「じゃあ、理解してくれる店で食事すれば済むことじゃん」と言われるのだろうか。

私が書きたかったのは、アレルギーのことよりも、「あなたの店で食べたい」と言われることと、「お出しする事は出来ません」と言われることをどう受け止めるか、ということだったのだけれど、子供に算数を教えていたら、こんなタイトルになってしまった。

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2010年6月 7日 (月)

間違っている

ACのラジオCMで、「困ったオトナ、増えていませんか?」とのナレーションの後、どこにでもモノを捨てたり、大声で携帯で話したりするSEなどが挿入されるが、どうなるのかな?と思っていると、「こんな大人にしたくない。だから子供のうちに」えっ?「だめでしょう!ユウタくん!」「ごめんなさい」「はい、よくできました」「きちんとしかろう、ちゃんとほめよう、大切にされている、その思いで、子どもの心は育ちます。」エイシ~、という終わり方。えーっ!何だコレ!何のことだろう?

躾が大事、というのならそれだけを言えばいい。困った大人が増えていることと関連付けることは間違っている。叱らない親が増えているなどというのはもっと飛躍に過ぎる。
ここは本来、「大人が範を示そう」と言うべきなのにそう言わないのには、今や逆切れされて暴力行為を受ける、とかそういう配慮があるのかも知れないが、これではまるで言い掛かりになってしまう。「子供甘やかすと困った大人になりますよ」と言っても、今の「困った大人」は甘やかされて育ったとまでは言えないだろう。
私の個人的感覚では、男性は年齢が上へ行けば行くほど酷い。傍若無人この上ない。最悪だ。一方女性は全体的に変貌が凄い。「オス化」とか云われているが、単に公共の場での化粧や飲食は目のやり場に困る。そういえば口を手で押さえてないで欠伸をする女の人は増えましたなあ。
また脱線したが、電車なんかに乗っていると、一両に40人乗っているとして“透明の仕切りがある40室″があるように見えることがある。化粧する人、飲食する人、大声だす人、鼻ほじったり枝毛取ってそのへんに捨てる人。厄介なのは、恰も自分以外の存在がないように振る舞い、そのことがその存在を傷つけることだと思う。
これは子供をちゃんとしつけなかったからか?子供から老人まで、「プライバシーのある生活」が当たり前になったからではないのか?今の「困った大人」は手遅れで、「子供のうちに」叱ったりしないといけない理由は何なのか?

これではユウタくんがあまりに可哀相だ。大切にされていると思うだろうか。「子供のうちに」などという理不尽さを受けた子供は必ず、グレると思うんだけど。

困った大人に、ちゃんと「困っている」と言える社会にしよう。大人を叱ったり、褒めたりできる社会を目指そう。子供が褒められたり叱られたりしたいような大人になろう。弱い者がいつも犠牲になる社会は間違っていると言おう。君たちは君たちであると同時に、社会の一員だと言おう。
そういうメッセージが交わされることを、子供たちに伝えていきたい。それを子供に伝えることが、子供の心を育てることだと私は信じたい。


テレビバージョンでは態度の悪いアンチャンが時折ユウタくんとオーバーラップし、きつく叱ると席を譲るユウタくんになる。やっぱりよくわからん。

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2010年5月26日 (水)

ジーンさん。

3月のボブのライブの時の会場配布物に、FM.COCOLOのものがあって、ライブ前にしこたまビックリしたのだが、なんとジーン長尾さんが4月限定で番組を持つことが書いてあった。これは今から始まる9年ぶりのライブに匹敵する驚異で、一緒に配られたゲイリー・ムーアや、ましてやジェフ・ベック来日の驚きなど、容易に凌駕するものだった。
11年ぶりである。前回のボブの来日より久しぶりである。ニュージーランドに永住する、ということで番組を降りたので、実質的な引退だった。私が中学の頃から知っているのだから、ボブ歴と変わらない。

というわけで1ヵ月、夢中になって聴いたが、やっぱり、良かった。何がどういいんだか、うまく説明できないのだけれど、たぶん、技術的なものをもっていらっしゃるんだろう。個性なのかもしれないけれど。

11年経って多少声に艶を増してはいらっしゃるが、相変わらずサラっとしつつ、適量のコメントを挟むのはうまい。例えば谷口キヨコさんも長いこと聴いていて、何で長いこと聴き続けてるんだろうなあ、と思うけど、別に面白いことなんか言わなくても、滑舌、高低、メリハリ、リズムは非常に聴きやすい。情報紹介なんか聴いていると、よくわかる。彼女の特徴的なところ、表現ぶりや、例えばキーワードをメロディに載せてみたり、突如崩して関西弁にしたりとか、そんなところがよく真似られている気がするが、実は彼女自身、声が高いこととセットで短所を長所にしている技術のようにも思えるので、誰でも真似できるものではないんだろうな、と思ったりする。

ジーンさんの場合は、やっぱり英語の発音がキーポイントかな。そう考えたら男性DJで発音、というと小林克也しか浮かばない。クリス・ペプラーもいいんだけど、なぜか気分がすぐれない時にはやっぱり聞けない。この、気分がすぐれない時に聞ける、というのはすごく大きい。メッセージがしつこくなく、また浮きすぎない。声の好き嫌いもあるのかもしれない。やっぱり、よくはわからないが、とにかくいいのだ。
最終日に、「ラジオの前にいる皆さんには、私の声しか届きませんが、番組というのは優秀なディレクターやミキサーさんといったスタッフがあって作られています。」とおっしゃっていたが、コンビネーションにもあるのだろう。
11年前よりネットも回線も進化してるんだから、ジーンさんにはニュージーランドからぜひ続けていって欲しい。

それにしても、FM.COCOLOのテコ入れとして「オーバー45のためのホール・アース・ステーション」というコピーを使用している。なぜに昭和40年生まれまで?だからといって昭和20年代もあまり相手にしているとは思えないのだけど、60年代から80年代の音楽を中心にかけるとしたら、そこで生まれた人では広く、そこで青春を過ごした人では狭い感じ。私は聴いてます。

ジーンさんのYou TubeもPod Castも何もなかった。でも、やっぱりこれでしょう。

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2010年5月23日 (日)

When The World Was Young

知り合いが子供を児童劇団に入れたことがきっかけで、児童劇を見るようになった。
舞台の上に立っている小学生が、それぞれ演劇に目覚めて入団したとは思えないが、100人近くいると、数人は他の子供たちとは別次元の才能を持った子供がいる(ように見える)。それはきっと、親が芸事に通じているとか、そんな理由が隠されているのだろうが、スポーツでも何でも、極めて小さな割合で、“天才″が存在することを知る。

話を聞くと、親の欲目で、加藤清史郎とか大橋のぞみとか見て、あれならわが子でも…と児童劇団に入れるが、これがなかなか続かないのだそうだ。そもそも、親の妄想と児童劇団のビジネスモデルは、まったく違うらしい。
親は、児童劇団に入れれば、あるいは入れさえすればテレビの仕事が入り、あわよくば人目に留まって有名に…と思う。一方、児童劇団の視点は保護者や団員より、メディアを向いている。○才ぐらいの男の子で、こんな特技のある子を3人、とかいったオーダーがあった時、豊富な人材からメディアの要求に、団員を迅速に用意できるかどうかなので、悪い言い方をすれば団員は「在庫」である。しかも「在庫」は結構高額な入所金と月謝を振り込んでくれるところが普通の流通業と異なるところだ。…今に子役もアマゾンで発注できるようになるのだろうか。

またまた脱線したけど、児童劇を見て感心するのは、当たり前だがプロが演技指導をし、演出をし、舞台監督がいる劇は、例え15分の上演であったとしても、あるいは準備期間が同じであっても、学芸会とはまったく異なるものになる。

“児童劇″と限定したのは、彼らはほぼ人生を知らず、また舞台の上で何かを演じることが、客席からどう見えるかがほぼわかっていないにもかかわらず、何かをやらかそうとするところに驚くからである。(ちなみに先ほどの“天才″は、もちろん“わかっている″。)つまり技術というものがあり得ないと思うのに、舞台で笑い、泣き、怒り、人生を大人に伝えようとする。それはがっちりとビジネスに組み込まれていようと、いまいと。

何も知らない子供に、大人はシンパシーを持つ。純真さを訴える子役の出るテレビドラマは、当たる。しかし5年も経つと子役は忘れ去られる。中学生になった子役は、大人がシンパシーを感じることのできない"いまどきのコドモ"になってしまう。杉田かおるだって、安達祐美だって(ちょっと古いが)、みんなこの壁にぶつかってきている。同年代にシンパシーを得ることのできる子役は稀有だと思うので、一気に需要が下がる。そこから、もう一度ハイティーンに魅力を見出されて戻ってくる人は、凄いと思う。
…書いていて気付いたが、このことは何も、「子役」に限ったことではないようにも思う。

ある意味、児童劇は一瞬の、生命の煌きのように感じる。一人一人が生まれ持った宇宙が、社会によって破壊される前の、美しさがある。ぜひ、児童劇をお勧めします。

本当はタイトルとも"When I Was A Child"にしようと思ったのが、こっちのほうがなんか良くなった。

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2009年12月25日 (金)

鳥人。

今年のM-1はパンクブーブーの勝利に終わったが、今年はなかなかの熱戦だった。

ナイツはさすがで、ちゃんと去年から修正をしつつ、自分たちの漫才を貫いた。番組終了後に紳助が言った「上手い4組」は明らかに決勝3組とナイツだし、トップバッターという不利な状況にもかかわらず申し分ない出来だった。いかんせん、個人的にはボケ4分は辛い。

南海キャンディーズも凄かった。紳助の「下手4組」には入るが、初めて本気の静ちゃんを見た。この4年でまったく別人のようだ。二人とも、思うところはいろいろあったのだろう。正直、ここまでやるとは思わなかった。

東京ダイナマイト。やはり取りにきた。ただ、後半ところどころノリが長すぎるところも感じた。もう少しハチミツ二郎がキレてもいいような気も。

ハリセンボン。序盤の躓きもさることながら、春菜のツッコミの単調さからか、中盤からは既視感から別のことをずっと考えていた。仮にハリセンボンが、サンドイッチマンのネタをやったとしたらどうだろう。伊達のような、「イカツイ」というキャラがフリになるほど、春菜のキャラはフリにはなってはいない。サンドイッチマンの笑いは、「イカツイ」というキャラを惚けて徹底的にコケにする。はるかのボケも相変わらず力無く、ここは静ちゃんを見習って欲しいところである。彼女らはバラエティ馴れしてしまった感があるが、初めてイロモネアに出た頃のインパクトが懐かしい。今回最下位であるが、一番M-1対策していないように見えたので、当人たちは凹んでいるだろうが、それも仕方ないところである。

笑い飯。あまりにぶっちぎり過ぎて、コメントがない。直後のコメントも興味深い。

ハライチは、笑い飯の直後ということを考えると健闘した。ナイツで「ボケ4分は辛い」としたが、ハライチのノリ4分も辛い。最後のツッコミの頃には、声も枯れてしまい、オチが弱くなっていた。ただ、こういうハライチの芸風というのは笑い飯のWボケと同様、オリジナルであり、これは貴重なことだと思う。あるあるネタをやる芸人よりは好きだ。

モンスター・エンジン。うーん少し早かったのと、展開は単調だったかもしれない。カウス師匠が開口一番「ガラが悪い」と言ったのは意外だった。芸には大切なことなのだ。効果音などでわかりにくいが、確かにお客さんは引いたのだろう。

パンクブーブー。ちゃんとM-1対策しており、いつもよりテンポアップしていた。技術力が頭一つ抜き出ていると感じた。
NON STYLEもさすがだと思った。確かに紳助が言うようにラスト1分は少し驚いたが、何よりも過去のチャンピオンが再挑戦するには、優勝した時と同じスタイルではダメなのだな、と感じた。さらにハードルが上がるのだ。数年前にフットボールアワーが再挑戦した時にもそう思った。

さて、問題の最終決戦。一部には笑い飯じゃないのか?との声もあるが、審査結果については毎年物議を醸すところ(第1回から)。勢いは3組とも横一線だった。紳助は「いいネタを2つ用意するのは難しい」と言った。ネタ、笑いの数、技術とすれば、「勢い」は笑いの数かもしれない。
私は、極めて消極的だが、最終決戦は「パンクブーブー」の技術を落とすわけにはいかない、と感じた。ネタ:パN笑、笑いの数:横一線、技術:パN笑としたら、やっぱりパンクブーブーになるのか。笑い飯優勝はドラマだが、これは今年にはじまったことではない。

敗者復活で爆笑を取った残り9組もぜひ見たい。そうすれば、紳助に「下手4組」と言われた4組が「吉本枠」などと揶諭されることもない、と思うのだけれど。

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2009年12月12日 (土)

さて来週

さて、今年もM-1の決勝進出者が決定したが、なかなか難しい。これだけバラエティが増えているのに、そこに出ている若手よりカムバック組が多く、レッドシアター組なんか全滅なのだ。

まずトップバッターのナイツ。もしも例の訂正漫才をやるなら、最初から爆笑は取れないだろう。トップバッター、予想されるネタ運び、ナイツの地味さ。うーん。
笑い飯、南海キャンディーズ、ハリセンボン、東京ダイナマイトも予想がついてしまうが、一番仕掛けてくるとしたら東京ダイナマイトだろうか。5年前のスタイルには反省があるだろうし、今回の進出者では一番気合い入っているかもしれないが、ネタのギャンブル性は笑い飯に近いものがあると思う。これまで、ギャンブル性があってM -1取ったコンビはいないと思うのだ。
でもネタの途中で、「あ、どうも、東京ダイナマイトです」と入れるセンスは大好きだ。
次が南海キャンディーズ。おそらく、以前よりは技術的に向上しているだろう。山ちゃんの気合いも東京ダイナマイトといい勝負だろう。いかんせん、静ちゃんにかかっている。前回の読み違いは大きい。
ハリセンボンにそんな欲があるとは思えないが、女性コンビは難しい。M-1ネタを2本用意できるのか。
笑い飯は、すでにグランプリを取る気があるのかどうかもわからない。ただ、アホみたいなネタをやりだしたら、先のギャンブルはあるかもしれないが…。

モンスターエンジン、ハライチ、パンクブーブー。先に書いたコンビよりも、この3組は大好きなコンビばかりだが、M-1取るか、と言われれば、技術点がちょっと低いかな。モンスター・エンジンの笑いは爆笑の笑いじゃない気がするし、ハライチはノリボケ一本だからなあ。パンクブーブーを本命視する声もあるが、テンポがM-1向きじゃないのでスベる可能性もある。過去、この対策をせずにM-1取ったのはたぶん中川家とサンドイッチマンだけだと思うが、たぶんいずれももともとのテンポがM-1向きだったから、ではないのか。

ちなみに過去、明確にM-1対策をして取れなかったなあ、と思いつくのは、品川庄司、キングコング、トータルテンボス。それにしても去年のU字工事は途中からキレ出して面白かったなあ。

さて、予想しないといけない。でもM-1って、意外に技術力を評価している。まず2、3年のキャリアのコンビは取っていない(最年少チャンピオンはフットボールアワーで4年)。てなことを考えると、これまで最終3組に残っているナイツ、笑い飯はやはり強くて、パンクブーブーが割り込んでくるか。

私の予想であり、期待は敗者復活枠。(あらら…)

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2009年4月28日 (火)

スタアの恋 (北野誠編)

草彅剛、藤原紀香ときて北野誠ということに他意はありません。

たった一言。われら一緒に楽しんでたサイキッカーも同罪です。まこっちゃんごめん。そして本当にありがとう。必ず戻ってきて欲しい。

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スタアの恋 (藤原紀香編)

結婚は、他者との関係の中である役割を与えられる点で、就職の一形態である、と思う。
好きなことを続けていて食えるようになる人もいれば、気がついたら今の職場、という人もいる。転職を繰り返す人もいれば、フリーターもいる。何を指しているかおわかりかと思う。
就職活動略して「就活」に準え、「婚活」という言葉が昨今用いられるが、さもありなん、と思う。

陣内智則と藤原紀香については、なぜか結婚前から離婚する予感があったが、多数の人もそうなのだろう。こんな感じ、IZAMと吉川ひなの以来かもしれない(少し古いかも)。

もう再婚までして子供を設けている人の話を持ち出すのもなんだが、あの時、IZAMはひなのを守ろうとしていた、ように見えた。半ば意地になって。
たいていこういう時、男は守ろうとする。陣内も離婚会見では、藤原紀香をすごく守ろうとしていた。
ただIZAMと違うのは、芸人としてそこに居なければいけないし、これからも居続けなければいけない。そして人前では、「紀香」の話題に触れずにやり過ごすわけにはいかない。

一方紀香も、モデルであり続けなければならない。しかしそれは、「自分らしくあるため」であり、それは陣内のそれとは少し違う。
陣内の度を越した浮気が原因であるかのように報道されているが、藤原紀香のいくつかの発言から私は、そこに何か特別な離婚理由が求められるのではなく、そもそも前提においたもの…藤原紀香が「藤原紀香らしくありながら」結婚生活を続けること…に無理があったのではないか、と思う。

私はサラリーマンであり、会社は私と同じ労働を提供する者なら誰であれ、私のサラリーと同額又はより低額のサラリーを払うだろう。会社は私でなくてもいいのだ。
もし私が職場で「私らしさ」を主張したらどうなるだろう。組織の側からすれば、その主張が組織に有用であるかどうかが重要であり、さもなくば放逐されるだろう。

しかし藤原紀香は違う。「藤原紀香」であるところからギャランティが発生し、後はどんどんオプション料金が増えていく。「自分らしく」あるかどうかはわからないが、世間が持つ「藤原紀香」らしいイメージを保ち、育むことを生業としている。

社会での役割のみならず、一見プライベートな結婚生活においても、「自分らしくあること」など出来ないのではないか、というのが私の仮説だ。たとえば卑近な例で恐縮だが、私の結婚生活には、私でなくても「夫」としてであればたぶん、誰でもいいことがゴロゴロある。ゴミ出しから、妻の親族との付き合いに至るまで、ゴマンとある。このことに私または妻が疑問を持つなら、結婚生活は成り立たない。

ではそういう前提の結婚生活を、「私らしくあるために」離婚したという、藤原紀香は送ることはできなかったのだろうか。いや寧ろ、陣内の交遊関係には「妻として」積極的に務めてきたように伝えられている。
でも紀香は、結婚時に「一緒にお墓に入る」だの「芸人さんの嫁になる」だのといった発言が私の耳には残っていて、どうも彼女は「形」への意識が強かった気がしてならない。

結婚生活においても年数を経ると、いよいよ「私らしさ」を保つことは難しい。○○さんのご主人、○○ちゃんのお父さん、○○さんの次男坊…。例え嫌でも、その役割は引き受けなければならない。なぜなら結婚は社会制度なのだから、嫌なら結婚しなければいいだけなのだ。「新しい結婚の形態」なんて言葉は最近聞かれなくなったが、あるとしたら「しない」ことである。
幻想かもしれないが、その役割を引き受けたうえで、一人では成し得ない「何か」を成し得、分けあえるような気がする。

藤原紀香が欲しかったものは何だったのか。陣内は会見で「今思えば気持ちだけで(先を考えずに)結婚に踏み切ったのかもしれません」とレポーターの残酷な誘導に答えていたが、気持ちだけで結婚に踏み切って何がいけないのか?
「五体不満足」の著者、乙武洋匡が今から七年ぐらい前に結婚した際に披露した奥さんのエピソードが今もって忘れられないのだが、「ギャンブルみたいでわくわくする」と言ったそうである。すごい。これはすごい。

藤原紀香にとって「自分らしくあること」とは、所謂「藤原紀香らしく」あることだったのか、「芸人さんの嫁らしく」あることだったのか、それとももっと別のことだったのか。少なくとも私には、「陣内とともに生きる人らしく」ではなかったように思えてならない。だからこそ、早い時期から不吉な予感を抱いたのかも知れない。

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スタアの恋 (草彅 剛編)

草彅剛が逮捕されて、総務相以外の著名人のコメント、及び一般人のブログは須らく「かわいそう」が多い。テレビ欄を見ると「草彅剛さん涙の会見」などと、まるで被害者の会見のような見出しまである。

ところで私は、「かわいそう」かどうかは別に、久しぶりのスキャンダルだ、そう思った。
もし仮に、これが中居正広だったらどうだったろう。2回目の、稲垣吾郎だったらどうだろう。一人全裸で暴れる、そして誠実な記者会見を行う、そのイメージがあるのは彼しかないのだ。

スマッブと言えば、他の追随を許さないトップタレントである。その一人が、東京のど真ん中で、一人酒を飲み、一人服を脱ぎ、一人大声を上げた。この間、誰も彼を制することなくである。

世間は何を「かわいそう」と言うのか?どの立場から「かわいそうか」なのか?今回、非常にこの点に興味が湧いた。
家の前に公園があって、時々酔っ払いが騒ぐところに住んでいる人、全裸を見せられた人なら、「かわいそう」とは言わないだろう。
つまり、あくまでも視点はまず草彅側からの「かわいそう」だとか「気持ちはわかる」なのだ。誰もいない公園で深夜裸で大声を出すことは、受忍の範囲だ、と言うことである。

仮に彼が記憶を無くすほど飲んで、あの公園ではなく路上で、通りがかった女性に抱きついたとして、同じように拘留され、同じ記者会見を行っても、「かわいそう」という声が上がる気もする。被害者がインタビューに応じ、不用意なことでも言おうものなら、コメンテーターやら週刊誌やらネットやらでバッシングされかねないかもしれない。
因みにネット以外の2者は、何が世間に「受ける」か熟知しており、確信犯な感じもする。

私はそもそも、スマッブのメンバーに私などが「かわいそう」と言えるのだろうか、と思っている。
彼らはイメージを売っている。今回の事件は一見、イメージを逸脱したように見えて、実は前述のとおり逸脱してはいない。だから必要以上の責めは「かわいそう」なのだ。「彼らだってストレスやプレッシャーに押し潰されてるんだ、たまには酒飲んで大声上げたり、嵌めを外したくなるさ、普通の人間なんだから」、そういうことなのだろう。
しかしどうなんだろう、通りすがりの女性に抱きついたのではなく、酔って誰もいない公園で裸になって叫ぶ、というのは多分に劇場的に思う。カメラがあれば、ワン・シーンだ。考えようによっては、彼はこれまでも歓喜と興奮に酔い、裸同然にプライバシーを見つめられ、ドームか檜町公園かは別として、大声を発することがスマップとしてすでに経験してきたことなのかもしれない。

それにしても、記者会見は感動した。彼らしい、誠実さが伝わってくる会見だった。たった一つの取りこぼしもなかった。普通、ついうっかり受け答えを間違えることがあるが、それもなかった。逮捕時の会見、というのもあまり聞かないが、たいてい事前に事務所で詰めて、本人にリハーサルさせるのだが、彼の場合はそんな必要もなかったのかもしれない。
生中継を事務所が拒み、NHKと揉めたのはその点にあったのかもしれない。

唯一取りこぼしがあるとしたら、彼が酩酊して言った「裸になって何が悪い」だろう。彼の記憶にないこの言葉にこそ、スマッブではない彼の声が聞こえる気がする。
私もできれば、酒飲んで檜町公園で裸になって大声で叫び、スマッブでいたい。そう思うのはたぶん、私だけではないだろう。

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