音楽

2010年6月 1日 (火)

世界に捧ぐ

クイーンのファンだなんて、口が裂けても言えない。ライヴはおろか、CDも一枚も持っていない。しかし“世界に捧ぐ″までのスタジオアルバムと、ライヴアルバムはすべて聴いている。私は“クイーン、キッス、エアロスミス″の時代に育っているから、一応は通過している。

You Tubeでロパート・プラントの動画を見ていたら、93年のフレディ・マーキュリーの追悼コンサートで“CRAZY LITTLE THING CALLED LOVE″を演っているのを見た。演っていたことも知らなかった。そもそもこのイベント自体、あったことは知っていたが、なぜかTV放映を見逃し、見逃したのみならず録画もしておらず、さらにその後も見る機会がなかったということにいまさらながら驚いた。これ、凄いラインナップじゃないか。
というわけでYou Tubeで見れるだけ見たが、違う意味で凄いイベントだった。失われたものの大きさを痛感する、希有な追悼コンサートだ。

例えばジョージ・ハリスンの追悼コンサートは、出演者の想いがそれぞれ伝わってきて、ラヴィ・シャンカールが言ったとおりまるで本人がそこにいるかのようなイベントだった。追悼ではないが、ディランの30周年コンサートでも、それぞれの表現でディランへの想いを伝えていた。
しかししかし、フレディ・マーキュリーは違った。一つには、全編残りのメンバーの演奏にヴォーカリストが入って来るのだから、これがそれぞれのバックバンドを引き連れて、それぞれの解釈で演奏したならまた異なったかも知れないが(その場合クイーン追悼になるかも)、どのテイクも、あまりにもフレディの存在感が大きかったことを感じてしまった。ただ唯一、ジョージ・マイケルの“SOMEBODY TO LOVE″だけは凄かった。結局、このイベントに参加しなかったポール・ロジャースがQUEENを引き継いだが、たしかにポール・ロジャースは上手いけれど、ジョージ・マイケルは単純にフレディに近かった。あの歌唱や持っている熱、ひょっとしたら声質も、近かった気がする。感動した。エルトン・ジョンもアクセル・ローズも、ロジャー・ダルトリーもロバート・プラントもアニー・レノックスも、みんな歌い持て余していた。唯一、ジョージ・マイケルだけは歌い上げていた。

素晴らし杉。知らなかったが、この翌年にジョージ・マイケル・バージョンはシングルでリリースされ、以降自分のレパートリーにしているようだ。

ライヴエイドの映像をDVD化されたのを機に20年ぶりに見たら、いかにクイーンが独り勝ちしたかわかる。本人たちも、ライヴエイドを機に解散を踏み止まったと、まことしやかに云われている。それがクイーンがパンク・ムーブメントを乗り越た理由であり、クイーンの魅力とは、そういう魅力なのだ。
ただ残念ながら私は、ビートルズやストーンズ、ツェッペリンやディランのように、いつもずっと聴いてくることはできなかった、だけのことなのだ。

特典映像としてリハの模様が納められているが、クイーンはどんなショボいセットでもしっかりクイーンの音を出す。フレディの生前、クイーンがサタデー・ナイト・ライヴに出た映像でもそうだった。別にマーシャルを山のように積む必要はない。
それだけに、3人のクイーンをバックにしたヴォーカルパフォーマンスは、自ずから困難に違いなかった、そう思う。

あんまりにも素晴らしいのでリハ映像。デヴィッド・ボウイも見入ったあと、スタジオに拍手が起こっている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年2月27日 (土)

僕たちの失敗

若い頃、言いようのない敗北感を味わった時、例えば森田童子を聞くことで癒され、「言いようのな」かった敗北感を歌という形にすることができたかも知れない。
私と同年代の人は、こういった表現に少しは理解を示してくれると思うが、今の若い人はどうだろうか。若い人の敗北感は、どんなアーティストによって癒されるのだろうか。
あるいは「敗北感」と一口に言っても、みんな異なっているのだろうか。

音楽を聴くのは何も敗北感だけではない、と言う人もいるだろうが、私が言いたいのは、私の時代には私の敗北感を結晶化するのに、たとえば森田童子がいたのだが、今から十数年前に、「ぼくたちの失敗」がドラマで使われてリバイバルしたのは、私よりずいぶん後の世代が、やはりその世代の敗北感を結晶化したのではないか、と思ったのだ。

たぶん、今の若い人の敗北感は、森田童子で癒されるのではなく、YUIや私の知らない多くのアーティストで癒されるのかも知れない。

……………

タイトルからして意味ありげな、森田童子の「ぼくたちの失敗」は、彼女のか細い声で歌われるが、春の木漏れ日/君のやさしさ といった歌詞の後、「弱虫」と自認する。

森田童子は83年に活動停止して、リバイバルヒット時にも復帰をしなかった。が、2003年のリ・リバイバル時に、20年ぶりにたった1曲だけ新曲をベストアルバムに提供している。
厳密には「新曲」とは言えないが、「海が死んでもイイヨって鳴いている」を「ひとり遊び」というタイトルで再録音している。

http://www.youtube.com/watch?v=2bxhlVOeBd8
(埋め込み無効なので、URLで紹介します。)

20年ぶりの歌声は、やはり20年の時間の経過を感じさせる。ビアノもハーモニカも本人とのことだし、この音の悪さやボーカルが消えかけているところなど、普通ならリテイクだと思う。しかしそのままになっているのは、ひょっとしたらホームレコーディングではないか?と思ったりする。現役時から素顔さえ曝さないで活動をしていた人なので、レコード会社やスタジオに足を運ぶことがないことを条件に、オファーを受けたのかもしれない。

もう一つ、選曲なのだけれど、森田童子はこの歌に思い入れがあったのだろう。今もう一度この歌を歌うことと、そしてわずかに歌詞を変えることの二つが、聞き手に向けられたメッセージである(あるいは、この歌の歌詞を変える、という単一のメッセージかも知れない)。

歌詞が変えられたのはたった一カ所で、しかもタイトルが歌詞になっている箇所である。

「海が 僕と一緒に 死んでも いいョって呼んでます」

相当字余りながら、森田童子は歌いきっている。もちろん原曲はタイトルをなぞるべく、

「海が 死んでも いいョって鳴いてます」

となっていた。
この違いは、原曲が海が“僕″の自殺を赦す歌、そしてその絶望を感じるのに対し、再録音により、海が赦すのではなく、心中を了解している、あるいは死への誘惑を歌っているように感じる。直後に「誰か僕に話しかけてください」と歌われるのも、この部分との対比があると思う。
長い間この曲には誤解があったのか、あるいは創作者としての後悔があったのだろうか。

また最初と最後に繰り返されている歌詞は、父母の期待を裏切ったことを「許して」ほしいと歌い、「僕」はひとりで「生きて」いく、と歌う。「死んで」いくのではないのだ。

結局この歌は「遺書」ではなく、「訣別」を歌ったものなのだ、というメッセージなのだろうか。

ともあれ、タイトル部分の歌詞を変えた以上、タイトルも変えたのだろう。「ひとり遊び」とは意味深だ。20年ぶりに発表されたたった1曲にこめられたメッセージ、これらのメッセージは、往年のファンと新しいファン、そして彼女は「森田童子」にも向けて発せられたものではないのだろうか。それは「訣別」なのか。「遺書」なのか。

実は歌詞以外に、変更している箇所がある。2番と3番を入れ替えている。また、3番のあとにはモノローグがあったが、これもなくなっている。が、ここには何かメッセージが含まれているようには思えない。入れ替えたほうがしっくりくる、としたのか、あるいは単純なミスか、また以前あった「僕の声に驚いて目を覚ましました 僕は夢の中で泣いていたようです」というモノローグを、あらためて収録する必要は感じなかったのだろう。

「敗北感の結晶」などと「イタイ」言葉使いかも知れないが、森田童子が歌っていた時代に私が抱えていた、あてどころのない無力感や失望感は、ずいぶん歌に励まされた。歌の内容は励ましていなかったかもしれないが、私の「弱さ」に共通する情景を垣間見せてくれ、君は一人ではないんだよ、そう語りかけてくれた。

冬の終わりの頃になると、そんなことを思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年11月14日 (土)

ええっ!ええっ!

9october

(左から)Michael Giles, Peter Sinfield, Bill Bruford, David Cross, Robert Fripp,John Wetton and Mel Collinsだってさ。演奏もしてくれい。CDもだしてくれい。(宮殿40周年で、10月9日)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年5月17日 (日)

茅ヶ崎に背を向けて

ここ一月ほど、ウォークマンには桑田佳祐とサザンを入れてシャッフルしている。甘酸っぱい想い出も、その都度浮かんではシャッフルされるのだけれど、また一生懸命、自分の「青春」はいつ頃だったのか特定しようとしても、やはりシャッフルされてしまうのである。

「熱い胸騒ぎ」や「10ナンバーズカラット」の頃は自分も不安を抱えていたし、サザンもちょっと不安定な感じだった。
ちょうど彼らがTV出演をやめ、「タイニイ・バブルス」を出した時、ちょうど私の青春も「黎明期」だったように思う。ここまでの3枚は少ない小遣いの中から買っていた。

訳あって、ここから「ステレオ太陽族」「NUDE MAN」「綺麗」「人気者で行こう」は遅れ遅れ聞いている。レンタルが普及し始めたこともある。
しかし桑田佳祐のANNはずっと聞いていたような気がする。「KAMAKURA」のタイトルあてクイズもあった。

ちょうど「ふぞろいの林檎たち」が放映されていたのもこの頃だったし、「モーニングムーンは粗雑に」も公開されて、「BGMとしてのサザン」の側面も顕著てなっていた。

ここである意味第一期が終わる。次は「サザンオールスターズ」(稲村ジェーン)「世に万葉の花は咲くなり」「YOUNG LOVE」までが第二期。第一期よりも喪失感が強いが、「若気の至り」はない。

「さくら」以降を第三期と呼んでいいかどうかはわからないが、桑田佳祐の音楽の完成度は極めて高い。以前はネタ元がわかる…ように造られていたのだろうが、今はセルフ・パロディをやってもこの上ない完成度を感じる。YOU TUBEで「FIRST LOVE」のカバーを聞いたが、まんま「真夏の果実」だった。エンディングでギターがフレーズをちらっと弾くので、彼も確信犯なんだろうと思う。つまり、洋楽を取り込んでいった彼の音楽は、ずいぶん前から邦楽に取り込まれていたことに今更気付く。

「桑田佳祐のやさしい夜遊び」の中で、時折古い自曲をかける時に「(アレンジを)考えすぎなんだよな」と彼が言うことがある。確かに、「TSUNAMI」以降の曲は本当に肩から力が抜けていて、2007年に彼がリリースした4枚のシングルなんかは聞き惚れる。曲調は昔と変わっていないように思うのに…。
この変化の兆候は小林武史あたりと仕事をして以降だと思うが、「YOUNG LOVE」で小林から離れたのに、決して「KAMAKURA」以前に戻ったりはしなかった、というあたりからに思う。あと歌詞も凄くいい。名実ともに「ニッポンのロック」No.1だ。

話が逸れたが、「さくら」と「キラー・ストリート」がサザンなのか、という疑問はある。ビクター救済策、と言われることもある。
「TSUNAMI」で完全なるセルフカバーをして、しかもサザンのNo.1シングル売り上げを達成し、「波乗りジョニー」(これもセルフカバー?)でサザンとソロの境界を取り除き、「キラー・ストリート」に既発シングルとソロ用の曲をふんだんに投入して完成させた今、サザンとソロアーティスト桑田佳祐の差異は確かにない。

何をダラダラ話しているのか、と思われるかもわからないが、これは桑田佳祐のことではなく、私のことなのだ。青春は、「ふぞろいの林檎たち」のように私のある時期のBGMとしてサザンがあったのではなく、彼の音楽そのものが青春だったことに気がついた。
そして、彼の音楽の中で夢想している時間こそ、私の青春だったのだと思う。

「C調」でも「果実」でもなく、ぶっちぎりで私の一番好きな曲。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年5月 8日 (金)

メロメロ

忌野清志郎がやっていた音楽について、私は正直よくわからなかったし、これからもわからないと思う。

今から30年近く前、バンドの先輩と遅くまで飲んでいて、先輩が「そんなことはRCのライブを見て言っているのか、どうなんだ」と凄まれたことがあった。テレビでは見たことがあったが、そんなに凄いか?と内心思っていた。

しばらくして、初めて彼がテレホン・ショッキングに出たのを偶然見た。それはとても衝撃的だった。
タモリの紹介に続いて、彼はアコギを弾き、歌いながら登場した。アルタの観覧客をガンガン煽りながら、タモリの制止も意に介さず、ほとんどトークもなく友達紹介となった。

メッチャメチャ格好良かった。初めて映画館で動くジミー・ペイジを見た時のようだった。
この番組にはすでに幾多のミュージシャンが出演していたが、完全に“オン″の状態で出て帰ったのは彼が初めてではなかっただろうか。陳腐な言い方になるかもしれないが、それが彼のメッセージの全てだったような気がする。

97年、ファンの間では迷いのあった時期とされているようだが、CMソングで「メロメロ」が流れた。私自身が冒頭「よくわからない」としたのは、一つには彼の特異な発声もあるのだけれど、「メロメロ」のようなシンプルでヘヴィなロックにのると、今更ながら凄いヴォーカルだと聞き惚れた。
今回、YOU TUBEで初めて彼の「君が代」を聞いたが、これも凄い。ロックやフォーク畑の人が「君が代」を演る場合には、演ること自体に意義があることが多いように思うが、彼のは十分に発表するに足るものに思うし、何度も聞きたい。
ジミヘンが国歌を弾く以上、「君が代」にチャレンジする人は多く、私もチャレンジしたことがある。あの平板な音階、拍子を昇華するのは本当に難しい。
もっとも、彼のような何十年もキャリアのあるプロならたやすいかもしれないが、あのパンク・ヴォーカルは上手い。彼のパンクに対する造詣を感じさせるものだが、あれを発売禁止にしたのは惜しい。「あまりに素晴らし過ぎたので発売を見送ります」という東芝EMI(当時)のコメントは顰蹙ものだったが、確かに素晴らしいことには間違いなかった。

何かのフェスで、当時の小泉首相がXJAPANのファンだと公言したことを捉え、「小泉総理、アンタ趣味悪いゼ!」と言っていたと聞いたが、爆笑してしまった。愛しあってるかい?合掌。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年1月24日 (土)

首領クリムゾンの宮殿

ここのところ音ネタが飛んでいるのでキング・クリムゾンの話などを。
まあ円広志も音ネタなんだけどね。

この歳になるとあまり広がりがなくて、同じアーティストを一定のローテーションで聴いているように思う。ビートルズ→フロイド→ツェッペリン→ディラン→クリムゾン→クラプトンまたはヘンドリックス→ビートルズ、ってな感じだろうか。基本的にフロイドやディランはダウナー系で、ツェッペリンを聴いている時は大概アッパー系だ。だからツェッペリンを暫く聴いていないな、と気付く時は、精神的にやや持ち直してきているバロメータになっている(底にいる時はそんなことにも気付かない)。

ではクリムゾンを聴いている時はどんな時かというと、これが単純には言えない。。“IN THE COURT OF CRIMSON KING″“STARLESS″“THELA HUN GINJEET″をそれぞれ聴いている時は違うかも知れないし、同じかも知れない。

自分にとって一番しっくりくる答えは、その昔仮面ライダーにショッカーの首領というのがいて、絶えずKKKみたいな覆面を被っているのだが、最期の戦いでライダーが覆面を剥ぎ取るとその下からは妖女ゴーゴンのような蛇だらけの頭部が現れる。それだけでも十分なのだが、ライダーは何を思ったか、さらにそれを剥ぎ取ると、まるでスペル星人のような、クエスチョンマンのような白く不気味な一つ目の頭部が現れる。つまり、“IN THE COURTOFCRIMSON KING″は蛇頭で、“DISCIPLINE″は白頭なのである。誰も分かってくれないだろうなあ、たぶん。

これまでの人生で、“IN THE COURT OF CRIMSON KING″と“LAYLA″の2曲は、初めて聴いた時から完璧な曲だった。“MARS″を聴いた時も驚いた。こんな“必然的な″曲があるのか、と。

未だに、ロバート・フリップの策略だ、とか言いながらも、喜んで騙されようとする人は多いのは、なぜなんだろうか?
たぶん、みんなスキヅォイド・マンなんだ、と思う。私を含めたわれわれに提示されるべきは、彼らによって周到に用意された、クリーンな音なのだろう。
私が初めてクリムゾンを聴いたのは、「新世代への啓示」発売時である。まさに私には「啓示」に外ならなかった、のである。
しかしその時すでにクリムゾンの実体はなく、過去のバンドと化していた。上記のとおり“IN THE COURT OF″は今もって私の人生の一曲であるが、本当にクリムゾンに撃ち抜かれたのは“DISCIPLINE″だった。

この出し抜き感。「神殿」でも「ブラック」でもない(「太戦3」はあったけれど)。レコード会社に折れてバンド名をクリムゾンにした、というのは有名だが、今もって「だからクリムゾンではない」というファンはかなり減っただろう。「宮殿」も「アイランズ」も、「アースバウンド」も「レッド」もクリムゾンの横糸で紡がれているのである。この、音に対する誠実さ。

またまた話がそれてしまった。ジミー・ペイジやキース・リチャーズのように何弾いているかわからない音の塊を聴いても、アドレナリンが出ている場合は大丈夫だが、出ていない時は疲れる。かと言ってディランでもあの独特のボーカルが疲れる場合もある。いずれにせよ、クリムゾンが聴きたいと思う時は、多少疲れている時に違いない。クリムゾンは私をいらつかせたりはしないのである。
気持ちが「蛇頭」の時、自らの姿にうちひしがれたい時、あるいは蛇頭を引きはがしてその下にある「白頭」に変身したい時、私はクリムゾンを聴くのである。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2008年8月31日 (日)

PERFUMEでっす

どうして“トランス”と言わないのだろう?
“テクノ”という言い方も、メンバーの語彙が不足しているだけだと中田ヤスタカが言っているし。何か90年初期に流行ったTKOリミックスみたいな感じもあるし。
これは受けるな。10代から20代の女性まで受けるんじゃないか。あーちゃんのキャラがいい。他のメンバーが出なくていいし、前に出ようとして媚びる感があると、女性視聴者は敏感だ。
いい楽曲を出し続けて欲しい。いくらでも聞ける。

驚いたのは、同じアミューズの看板サザンが新曲の“I AM YOUR SINGER
”でボコーダーを使っている。なんか笑えてしまう。
この間のMステの前半、あれは口パクなんでしょうかね?それとも半々なんでしょうかね?いつもよりボコーダーのかかりが薄かったのか、それとも生音のミックスが大きすぎたのか、彼女らの歌がよく聞こえました。
こういうのを“ギリモザ”っていうんでしょうか、なんか彼女のスッピンを見た時のような眩しさが‥(笑)

たぶん削除されているかな?

| | コメント (0) | トラックバック (0)