書籍・雑誌

2010年6月12日 (土)

Separation

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自分と出会う前の恋人に会ってみたい、と思うのは男性ならでは、なのだろうか。
「Separation」は、妻がどんどん若返る話だ。「いま、会いに行きます」の市川拓司(当時は「市川たくじ」名義「きみは、ぼくの」改題)のデビュー作だが、著者は「いま会い」をはじめ、「恋愛写真」や「そのときは彼によろしく」といった時間軸を弄る作品を次々発表することになるが、私はこの「Separation」が一番好きだ。

子供が欲しかったが、叶わなかった夫婦。妻が最近肌艶がよくなり、身長も少し低くなった気がする…。そんなところから始まって、実際の時間経過よりも速く、妻の若返りは進んでいく。

「いま会い」と違うな、と思うのは、そして私が好きな理由でもあるが、「時間軸の弄り」は「設定」であって、何が変わり、何が変わらないかをより読者に伝えようとする試みに感じられる。

愛する人が変わっていくこと、愛する人を失うことに直面するとき、何が変わり、何が変わらないのか。
老化が著しく進んでも、若返りが著しく進んでも、行き着くところは死だが、若返る場合にはゼロが予め判明している。愛する人を失う恐怖に耐えながらできることは何か。問い掛けてくることは非常に多い。

一番印象的なのは、妻が勘当同然の実家に5歳の姿で立ち寄ったことを夫に語るくだりだ。
妻は死ぬ前に両親に別れを告げたいと感じているが、結局最後まで告げない。実家の飼い犬と遊んでいると、母から食事でもしていないかと誘われ、親子3人で食事をする。うちにも、あなたのような女の子がいたのよ、そう母が言う…。

子を持つ親でなくても、ここで両親がこの女の子が実の子であることにすぐ気付いていることがわかるだろう。何ともせつない。別れ際に、本当は娘が嫁入りする時持たせてやろうと思っていたペンダントを彼女に渡す。

このほか、偶然出会った牧師夫妻の不思議な話も効いている。個人的には10年後のエピソードは不要で、もっと違うラストも用意できる気がするが、今から4、5年前に日本テレビが高岡早紀主演でドラマ化したものを思い起こせば(酷かった…)、そうも言えないのかな、と思う。

筆の力は、これまで紹介した作家に較べるとやや弱いけれど、切々と訴えるものがある。もともとネットで火が点いてから、出版されたのもわかる。ぜひ既婚男性にお勧めしたい一冊です。

立ち読みです(こっちのほうが雰囲気があります。
こっちはなぜかほとんど読めます(文庫化したものです)。

それにしても、夫婦は話す話す。小説の8割は夫婦の会話じゃなかろうか。こんなに夫婦って喋るのか?勉強になりました。

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2009年3月15日 (日)

まだまだ

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表三郎師の「問いの魔力」をやっと入手した。

ネットでは、サンマーク三部作(「答えが見つかるまで考える技術」「日記の魔力」と本書)では、一番内容が尻切れトンボだとか、期待に反するとか書かれていたが、私はこれは師の相当の力作だと感じている。なぜならこの著は一見、哲学思想の紹介書のような体裁を取ってはいるが、実はそうではない。 タイトル通り、「問い」についての書である。「問う」とはどういうことなのかが書かれている。ここを見誤って紹介書と読んだ人には、極めて満たされない気持ちになるだろう。マルクスについても、ヘーゲル批判についてのみ4ページしか割かれていない。

師は論文等は書いてこられたと思うが、一般書の出版としては「答えが見つかるまで」が初めてかと思う。本当に待ち望んだ書であったが、出版を待ち望むと同時に、師は何を語るのか、ということに強い関心があった。
満を侍して発刊された「答えが見つかるまで」は、すでにタイトル自体がメッセージでもあり、続く第2作も本作も、内容はこのメッセージを踏襲している。 問いの立て方と深め方の論理を読者に読ませようとするものであるから、僅か200ページ程の単行本であるが、相当の読みごたえのある本だ。1作目、2作目は一日で読んだが、ほぼ同じボリュームの本書は三週目に入った。

師はそれぞれを極めて正確で、しかも平易に書いておられる。このことは師が語学教師であると思い起こしてもなお、凄い。また、1、2作目同様、理解を助けるために師の体験もそこここに引用されている。
最後まで読んだら、「終わりに」のところに、「中学生にも読めるような平易な本」、だが「人生を賭けて問うてきたものの集大成」と自ら書かれていた。 つまり、師は難解を排して本書を出されたが、それでもなお、スラスラと読めるものではなく、もっと言えばこれをスラスラ読める人は、読み誤っている可能性大である。

師の講義を一年間の受講した際、師の発言を書き留めていた。今も残しているが、当時メモしたものの、意味が不明だったものについてこの「問いの魔力」には、それらが多く網羅されている。数十年を経て理解が進むというか、自らをもってして理解に至らなかったことに気付くというか、複雑である。
この書を読んで、あらためて前2作を読み直そうと決意したし、今後の人生で何度も本書を読み直して…挑んでいかなければならないと決意した。

平易に書かれてはいるが、しかし、万人に推奨できる書ではない、と思う。冒頭の感想を持った方も、多分、師にかつて接した方だと思う。況や師に接したことのない読者は、この書をどう読み解くのか。師が一語一語を正確に用い、精緻に構成した「平易な」文章を。

最後に少しふやけたことを書いてみる。本書の「終わりに」で、「問いのプール」を深めること、それは則ち「人類の問いのプール」につながる、という描写に、私は師の、とても深い“愛″を感じた。そしてまたこの一節に私は「経済学・哲学草稿」の一節を想い…、…さもなくば君の“問い″は無力であり、一つの不幸である…。

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2008年12月21日 (日)

対岸のPOP

2年越しで読みたいと思っていた角田光代の「対岸の彼女」を読んだ。
読んで、この小説のキャッチコピーと内容にすごくギャップを感じた。

《30代、既婚、子持ちの「勝ち犬」小夜子と、独身、子なしの「負け犬」葵。性格も生活環境も全く違う二人の女性の友情は成立するのか!?「負け犬」という言葉が社会的に認知されたいま、ついに書かれるべくして書かれた小説が登場しました!
独身の女社長・葵と、夫と子供を持つ主婦の小夜子は共に三十四歳。性格も育った環境も違う二人の女性に、真の友情を築くことはできるのか――。働く女性が子育て中の女性と親しくなったり、家事に追われる女性が恋愛中の女性の悩みを聞くのは難しいもの。既婚と未婚、働く女と主婦、子のいる女といない女。そんな現代女性の“心の闇”がリアルに描かれます。》(文芸春秋 内容紹介より引用しました)

他の書籍紹介でもそんなに変わらない。私の読み間違いがあるのかもしれないが、少なくとも立場の違う女性の間に存在するものがテーマになっている、と解せる。そんなことは書かれていなかった、というつもりはないのだが、私にとってはそれは小説の「仕掛け」であり、もっと大切なことが主題であり、それが感動させるのではないか、と思うのだ。

対岸の彼女」発表のちょうど10年前、芥川賞候補となった「もう一つの扉」は、本作と非常に共通するモチーフがあるように思う。

「もう一つの扉」の主人公のOLは幼なじみと2人でルームシェアを行うが、幼なじみが出て行ったあとも数人の女性とルームシェアをし続け、ある日その女性が失踪する。女性を訪ねて「眼鏡男」が訪ねてくるが、主人公は失踪した女性のことをほとんど知らない。「眼鏡男」は女性の帰りを待つべく、女性の持ち物が残された部屋で生活を始める。

主人公は幼なじみの彼と寝たり、また現在も会社の友人の彼氏とつきあっていたり、失踪した女性の服を着て出社したりする。ふとしたことから頻繁に葬式が行われる寺のすぐそばに引越すが、「眼鏡男」も女性の荷物と一緒に引越してくる。そこは、夜の9時になると決まって、どこからか「おーい、おーい」と人を呼ぶ声が聞こえる。

会社は欠勤しがちになり、つきあっていた彼氏に別れを告げられ、そして「眼鏡男」も女性の持ち物をすべてフリーマーケットで処分し、主人公のアパートを何も言わずに去る。
ラストシーンでは、一人「おーい、おーい」と叫ぶ声を追って川に出るが、その対岸には「眼鏡男」らしき男性ともう一人の歩く姿が見える。主人公は声を限りに叫ぶ。おーい、おーい。彼らは振り向かない。何度も何度も叫ぶ。おーい、おーい。

この話は「存在」をテーマにしている。幼なじみにはじまったルームメイトはどんどん縁が薄くなる。どこの誰なのかもわからなくなっていく。会社でも、最近入った女子社員が退社しており、名札のなくなったロッカーが空いている。欠勤が続く自分も、いずれそうなるのではないかと漠然と感じている。幼なじみの彼も、今の彼氏も、そして袖を通したルームメイトの服も「人のモノ」であり、ある時間、空間や何かを共有したとしてもそれはいつまでも続くものではなく、ある日突然、まるでそれはいままでの存在すらなかったように、主人公だけを置いて忽然と消えてしまう。
存在した証について、毎日寺の葬式の前を通るのは象徴的である。此岸から彼岸へ、どれだけ声を振り絞っても届かない川の向こうのように、自分を置いて‥自分の存在がなかったように、時は流れていく。

「対岸の彼女」のラストでも、小夜子は空想をしている。対岸の2人の女子高生がこちら側の女子高生姿の自分に気付き、手を振り、何か言っている。何を言っているかわからないが、橋を指差し、お互いに橋に向かって駆け出す。
「もう一つの扉」と「対岸の彼女」、この二つの作品の相違点は、まさにここなのかもしれない。「対岸の彼女」の対岸にあるのは、「もう一つの扉」にある「自分と関わる他人」だけではなくて、「過去の自分」も対岸に置いている点にあるのではないか。
重大な役割を果たしているナナコの存在(現在の葵が昔のナナコのようであり、昔の葵が小夜子のようであるのも、“仕掛け”だと思う)や、小夜子の予備校時代の友人、あるいは葵と小夜子を取り巻く多くの人々以外に、例えば小夜子ならばOL時代の自分、公園デビューで悩む自分、葵ならばいじめを受けていた自分、ナナコといた自分、人と関わることに疲れていた自分。しかし葵は「信じる」こと、小夜子は「選んだ場所に自分の足で歩いていく」ことを決める。

そして葵は「まったく別のルートからいつか同じ丘の上で、着いた着いたと手を合わせ」、小夜子は上記のとおり橋に向かって走りだすことを夢想する。
それは、「勝ち」「負け」や「友情の成立」が主題ではなく、ましてや「立場の違う女性の悩みを聞く難しさ」や「現代女性の“心の闇”」の解決ではないのだろう、と思う。でも著者自身がこういった書籍紹介を認めておられるのだろうから、やはり私の誤解なのだろうか。

そのことはさておいて、たぶん、それまでの角田作品と比べても、「存在の喪失」から一歩踏み出した、静かで明るい予感がある。おすすめします。

2年前、毎週東京を往復していた頃、新幹線の中では角田光代と重松清ばかり読んでいた。

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