「カメラを止めるな!」を止めるな!
「カメラを止めるな!」に関して言えば、3月1日に日本アカデミー賞が放送、翌日にスピンオフが配信、そして翌週にいよいよ地上波で放送されるという絶妙のタイミングで、たぶん昨年の夏以来2度目のパンデミックが起こるかもしれません。
ずーっと考えているのだけれど、なんでこんなにこの映画が面白いのか。
ちょっと見始めると、結局最後まで見てしまい、何度も何度も見てしまう。
「アツアツポイント」が本当はどこなのか、正直よくわからない。
最初の7分、本当に退屈だった。でも2回目は、見入ってしまう。
まったく同じ映像が、まったく異なって見えてしまうのはなぜなんだ。
たぶん、まず何より、コメディ映画としてよーくできているんだと思う。
そしてひょっとしたら、「よくわからない」ところがアツアツポイント、なのかもしれない。
ホラー映画って、ひとつ間違えると笑えてしまえるので、そのあたりを逆手に取ったのは、たぶん「悪魔の毒々モンスター」あたりからなのだろうか。
監督は自ら、「この映画を家族愛だという人も、仕事愛だという人もいるけれど、それは、僕自身それを出そうして制作したわけじゃないので、見た人が感じ取ってくれればいい。ちょうど映画の中で、『出す』んじゃない、『出る』の!と言っているように」とどこかで言っていた記憶がある。
そのために、ポイントでのカメラワークや演技、音楽まで、何度も何度も「カメラを止めて」、演出を決めている形跡が見られる。ワンカットなんて問題外。でも監督は、そこまで練り上げていながら、絶対にワンカットの(笑いの)疾走感を手放そうとしていない。
これは絶対に舞台ではダメで、映像表現でしか成しえないことを限られた予算、スタッフ、時間をフル活用して仕上げている(ことが伝わってくる)。
映画がドラマを見せるものだとしたら、例えばカメラマン(視点)は4人いる。
劇中劇→細田さん
ここまでドラマを複雑にされると、人間は鈍感で、もう何が何だかわからない。
アテ書きだということで、キャラクターと俳優さんの境界もわかりづらいし、役名も実名をなぞっている。俳優さんになじみがないことは、この場合、境界を作らないことに功を奏している。
先回りすると、公開以降のSNSや舞台挨拶など、スタッフからわれわれへのコミットが半端ない。このことも大きく成功につながっている。
もう、細田さんと本当の細井さんと、舞台の上の細井さんの違いなんかわからない。だから「カメ止め現象」まで含めて「カメ止め」になってしまいかねない。
上田監督は、漫才の映画化に成功できた人なんじゃないだろうか。ネタ(は原案があったかもしれないが)、無数の笑いのテクニック、テンポ、間、アクション、声の大きさに至るまで。
ただそれだけじゃない。
ここからがこの映画の恐ろしいところで、ここまでパンデミックが広がったのは、「絶対にストーリーを話すな」と聞いて、見た人の期待を裏切らなかった。そして、見た人は「絶対に見てね!ストーリーは話せないけど…」とまた煽る。
ストーリーもよくわからない。でも実はこの映画は巧妙で、ストーリーなんか事前にぜーんぶ知ってたとしても、面白い。なんでこの映画、もっと楽しめる方法を人に勧めたり、勧められたりしなきゃいけないのか?
そのために、ポイントでのカメラワークや演技、音楽まで、何度も何度も「カメラを止めて」、演出を決めている形跡が見られる。ワンカットなんて問題外。でも監督は、そこまで練り上げていながら、絶対にワンカットの(笑いの)疾走感を手放そうとしていない。
これは絶対に舞台ではダメで、映像表現でしか成しえないことを限られた予算、スタッフ、時間をフル活用して仕上げている(ことが伝わってくる)。
ともかくこの映画、情報量が多すぎる。ポイント(ボケの数)が多すぎる。だから何回見ても、違うところで笑える。その笑えるポイントが全部計算されている。
この映画の面白さを、単に「伏線回収」と言ってしまうことに僕は多少違和感があって、伏線回収なら、一度わかってしまうとそう何度も見ようとは思わないと思うのだけれど、この映画がそうではないのは、もっと情に働きかける何かがあるみたい。
この映画の面白さを、単に「伏線回収」と言ってしまうことに僕は多少違和感があって、伏線回収なら、一度わかってしまうとそう何度も見ようとは思わないと思うのだけれど、この映画がそうではないのは、もっと情に働きかける何かがあるみたい。
映画がドラマを見せるものだとしたら、例えばカメラマン(視点)は4人いる。
劇中劇→細田さん
劇→谷口さん
映画→本当のカメラ(曽根剛さん?)
リアル→われわれ、メイキングを撮った人
(もっと言うと、最近、「カメ止め」を見てる自分、を見てる自分もいる)
リアル→われわれ、メイキングを撮った人
(もっと言うと、最近、「カメ止め」を見てる自分、を見てる自分もいる)
ここまでドラマを複雑にされると、人間は鈍感で、もう何が何だかわからない。
アテ書きだということで、キャラクターと俳優さんの境界もわかりづらいし、役名も実名をなぞっている。俳優さんになじみがないことは、この場合、境界を作らないことに功を奏している。
先回りすると、公開以降のSNSや舞台挨拶など、スタッフからわれわれへのコミットが半端ない。このことも大きく成功につながっている。
もう、細田さんと本当の細井さんと、舞台の上の細井さんの違いなんかわからない。だから「カメ止め現象」まで含めて「カメ止め」になってしまいかねない。
上田監督は、漫才の映画化に成功できた人なんじゃないだろうか。ネタ(は原案があったかもしれないが)、無数の笑いのテクニック、テンポ、間、アクション、声の大きさに至るまで。
ただそれだけじゃない。
ここからがこの映画の恐ろしいところで、ここまでパンデミックが広がったのは、「絶対にストーリーを話すな」と聞いて、見た人の期待を裏切らなかった。そして、見た人は「絶対に見てね!ストーリーは話せないけど…」とまた煽る。
ストーリーもよくわからない。でも実はこの映画は巧妙で、ストーリーなんか事前にぜーんぶ知ってたとしても、面白い。なんでこの映画、もっと楽しめる方法を人に勧めたり、勧められたりしなきゃいけないのか?
あとフィクションでありながら、同時にドキュメンタリーを見せられている感覚。
M-1が漫才コンテストでありながらドキュメンタリーで、笑いながらそこに感動するのに近い感覚がこの映画にもあるけど、M-1が漫才の4分間とその前後の境界がはっきりしているのに対し、この映画にはそれがない。
ネットには、この映画を「文化祭」と揶揄するような言い方もあるが、内輪受けには終わっていない。単なるメイキングや特典映像ではない。
もし文化祭なら、見てる僕らもパンデミックを作っている、大きな内輪受けなのかもしれない。相互にすごい愛情を感じるのはなぜなんだろう。
ほら、こんなに長くなってしまいました。
上田監督の技術と、「よくわからなさ」による感染が、この映画の魅力なんだろうな。
感染が終わるのは、境界がはっきりしてしまうことだとしたら、「カメラを止めるな!」を止めるな!
(スキャンダルが出ないように、ヨロシクでーす) (2019.2.9)
M-1が漫才コンテストでありながらドキュメンタリーで、笑いながらそこに感動するのに近い感覚がこの映画にもあるけど、M-1が漫才の4分間とその前後の境界がはっきりしているのに対し、この映画にはそれがない。
ネットには、この映画を「文化祭」と揶揄するような言い方もあるが、内輪受けには終わっていない。単なるメイキングや特典映像ではない。
もし文化祭なら、見てる僕らもパンデミックを作っている、大きな内輪受けなのかもしれない。相互にすごい愛情を感じるのはなぜなんだろう。
ほら、こんなに長くなってしまいました。
上田監督の技術と、「よくわからなさ」による感染が、この映画の魅力なんだろうな。
感染が終わるのは、境界がはっきりしてしまうことだとしたら、「カメラを止めるな!」を止めるな!
(スキャンダルが出ないように、ヨロシクでーす) (2019.2.9)
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