When The World Was Young
知り合いが子供を児童劇団に入れたことがきっかけで、児童劇を見るようになった。
舞台の上に立っている小学生が、それぞれ演劇に目覚めて入団したとは思えないが、100人近くいると、数人は他の子供たちとは別次元の才能を持った子供がいる(ように見える)。それはきっと、親が芸事に通じているとか、そんな理由が隠されているのだろうが、スポーツでも何でも、極めて小さな割合で、“天才″が存在することを知る。
話を聞くと、親の欲目で、加藤清史郎とか大橋のぞみとか見て、あれならわが子でも…と児童劇団に入れるが、これがなかなか続かないのだそうだ。そもそも、親の妄想と児童劇団のビジネスモデルは、まったく違うらしい。
親は、児童劇団に入れれば、あるいは入れさえすればテレビの仕事が入り、あわよくば人目に留まって有名に…と思う。一方、児童劇団の視点は保護者や団員より、メディアを向いている。○才ぐらいの男の子で、こんな特技のある子を3人、とかいったオーダーがあった時、豊富な人材からメディアの要求に、団員を迅速に用意できるかどうかなので、悪い言い方をすれば団員は「在庫」である。しかも「在庫」は結構高額な入所金と月謝を振り込んでくれるところが普通の流通業と異なるところだ。…今に子役もアマゾンで発注できるようになるのだろうか。
またまた脱線したけど、児童劇を見て感心するのは、当たり前だがプロが演技指導をし、演出をし、舞台監督がいる劇は、例え15分の上演であったとしても、あるいは準備期間が同じであっても、学芸会とはまったく異なるものになる。
“児童劇″と限定したのは、彼らはほぼ人生を知らず、また舞台の上で何かを演じることが、客席からどう見えるかがほぼわかっていないにもかかわらず、何かをやらかそうとするところに驚くからである。(ちなみに先ほどの“天才″は、もちろん“わかっている″。)つまり技術というものがあり得ないと思うのに、舞台で笑い、泣き、怒り、人生を大人に伝えようとする。それはがっちりとビジネスに組み込まれていようと、いまいと。
何も知らない子供に、大人はシンパシーを持つ。純真さを訴える子役の出るテレビドラマは、当たる。しかし5年も経つと子役は忘れ去られる。中学生になった子役は、大人がシンパシーを感じることのできない"いまどきのコドモ"になってしまう。杉田かおるだって、安達祐美だって(ちょっと古いが)、みんなこの壁にぶつかってきている。同年代にシンパシーを得ることのできる子役は稀有だと思うので、一気に需要が下がる。そこから、もう一度ハイティーンに魅力を見出されて戻ってくる人は、凄いと思う。
…書いていて気付いたが、このことは何も、「子役」に限ったことではないようにも思う。
ある意味、児童劇は一瞬の、生命の煌きのように感じる。一人一人が生まれ持った宇宙が、社会によって破壊される前の、美しさがある。ぜひ、児童劇をお勧めします。
本当はタイトルとも"When I Was A Child"にしようと思ったのが、こっちのほうがなんか良くなった。
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