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2010年5月

2010年5月26日 (水)

ジーンさん。

3月のボブのライブの時の会場配布物に、FM.COCOLOのものがあって、ライブ前にしこたまビックリしたのだが、なんとジーン長尾さんが4月限定で番組を持つことが書いてあった。これは今から始まる9年ぶりのライブに匹敵する驚異で、一緒に配られたゲイリー・ムーアや、ましてやジェフ・ベック来日の驚きなど、容易に凌駕するものだった。
11年ぶりである。前回のボブの来日より久しぶりである。ニュージーランドに永住する、ということで番組を降りたので、実質的な引退だった。私が中学の頃から知っているのだから、ボブ歴と変わらない。

というわけで1ヵ月、夢中になって聴いたが、やっぱり、良かった。何がどういいんだか、うまく説明できないのだけれど、たぶん、技術的なものをもっていらっしゃるんだろう。個性なのかもしれないけれど。

11年経って多少声に艶を増してはいらっしゃるが、相変わらずサラっとしつつ、適量のコメントを挟むのはうまい。例えば谷口キヨコさんも長いこと聴いていて、何で長いこと聴き続けてるんだろうなあ、と思うけど、別に面白いことなんか言わなくても、滑舌、高低、メリハリ、リズムは非常に聴きやすい。情報紹介なんか聴いていると、よくわかる。彼女の特徴的なところ、表現ぶりや、例えばキーワードをメロディに載せてみたり、突如崩して関西弁にしたりとか、そんなところがよく真似られている気がするが、実は彼女自身、声が高いこととセットで短所を長所にしている技術のようにも思えるので、誰でも真似できるものではないんだろうな、と思ったりする。

ジーンさんの場合は、やっぱり英語の発音がキーポイントかな。そう考えたら男性DJで発音、というと小林克也しか浮かばない。クリス・ペプラーもいいんだけど、なぜか気分がすぐれない時にはやっぱり聞けない。この、気分がすぐれない時に聞ける、というのはすごく大きい。メッセージがしつこくなく、また浮きすぎない。声の好き嫌いもあるのかもしれない。やっぱり、よくはわからないが、とにかくいいのだ。
最終日に、「ラジオの前にいる皆さんには、私の声しか届きませんが、番組というのは優秀なディレクターやミキサーさんといったスタッフがあって作られています。」とおっしゃっていたが、コンビネーションにもあるのだろう。
11年前よりネットも回線も進化してるんだから、ジーンさんにはニュージーランドからぜひ続けていって欲しい。

それにしても、FM.COCOLOのテコ入れとして「オーバー45のためのホール・アース・ステーション」というコピーを使用している。なぜに昭和40年生まれまで?だからといって昭和20年代もあまり相手にしているとは思えないのだけど、60年代から80年代の音楽を中心にかけるとしたら、そこで生まれた人では広く、そこで青春を過ごした人では狭い感じ。私は聴いてます。

ジーンさんのYou TubeもPod Castも何もなかった。でも、やっぱりこれでしょう。

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2010年5月23日 (日)

When The World Was Young

知り合いが子供を児童劇団に入れたことがきっかけで、児童劇を見るようになった。
舞台の上に立っている小学生が、それぞれ演劇に目覚めて入団したとは思えないが、100人近くいると、数人は他の子供たちとは別次元の才能を持った子供がいる(ように見える)。それはきっと、親が芸事に通じているとか、そんな理由が隠されているのだろうが、スポーツでも何でも、極めて小さな割合で、“天才″が存在することを知る。

話を聞くと、親の欲目で、加藤清史郎とか大橋のぞみとか見て、あれならわが子でも…と児童劇団に入れるが、これがなかなか続かないのだそうだ。そもそも、親の妄想と児童劇団のビジネスモデルは、まったく違うらしい。
親は、児童劇団に入れれば、あるいは入れさえすればテレビの仕事が入り、あわよくば人目に留まって有名に…と思う。一方、児童劇団の視点は保護者や団員より、メディアを向いている。○才ぐらいの男の子で、こんな特技のある子を3人、とかいったオーダーがあった時、豊富な人材からメディアの要求に、団員を迅速に用意できるかどうかなので、悪い言い方をすれば団員は「在庫」である。しかも「在庫」は結構高額な入所金と月謝を振り込んでくれるところが普通の流通業と異なるところだ。…今に子役もアマゾンで発注できるようになるのだろうか。

またまた脱線したけど、児童劇を見て感心するのは、当たり前だがプロが演技指導をし、演出をし、舞台監督がいる劇は、例え15分の上演であったとしても、あるいは準備期間が同じであっても、学芸会とはまったく異なるものになる。

“児童劇″と限定したのは、彼らはほぼ人生を知らず、また舞台の上で何かを演じることが、客席からどう見えるかがほぼわかっていないにもかかわらず、何かをやらかそうとするところに驚くからである。(ちなみに先ほどの“天才″は、もちろん“わかっている″。)つまり技術というものがあり得ないと思うのに、舞台で笑い、泣き、怒り、人生を大人に伝えようとする。それはがっちりとビジネスに組み込まれていようと、いまいと。

何も知らない子供に、大人はシンパシーを持つ。純真さを訴える子役の出るテレビドラマは、当たる。しかし5年も経つと子役は忘れ去られる。中学生になった子役は、大人がシンパシーを感じることのできない"いまどきのコドモ"になってしまう。杉田かおるだって、安達祐美だって(ちょっと古いが)、みんなこの壁にぶつかってきている。同年代にシンパシーを得ることのできる子役は稀有だと思うので、一気に需要が下がる。そこから、もう一度ハイティーンに魅力を見出されて戻ってくる人は、凄いと思う。
…書いていて気付いたが、このことは何も、「子役」に限ったことではないようにも思う。

ある意味、児童劇は一瞬の、生命の煌きのように感じる。一人一人が生まれ持った宇宙が、社会によって破壊される前の、美しさがある。ぜひ、児童劇をお勧めします。

本当はタイトルとも"When I Was A Child"にしようと思ったのが、こっちのほうがなんか良くなった。

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