夏の終わりとイン・スルー・ジ・アウトドア
世間はリマスターで賑やかで、当サイトもビートルズ・サイトとしては何か盛り上げないといけないのかもしれないが、新作でもないし、音をイジリ倒しても新しい解釈が生まれる訳でもないので、今回はあえて別の30周年を。
高校生だった僕は、夏休み中の部室に顔を出した後、駅前の寂れたレコード屋に行った。わざわざそこに行ったのは、予約もしていないのにあわよくば予約特典の便箋が貰えるかも、と踏んだからだった。
案の定、「あの、特典の便箋は…」と言うと、おっちゃんは「えーと、はいはい」と言って特典をくれたのだった。
私のために、特典が受けられなかった予約者がいたかもしれない。
バスに乗って、部屋の雨戸を締め切り、レコードに針を落としてボリュームをいつもより大きく上げた。
約3年半ぶりで、発売まで放送も解禁されなかったその“音″は、まるで映画の“幻惑されて″の弓セクションのような音からフェイド・インしてきた。
ツェッペリンの最期のアルバム、“イン・スルー・ジ・アウトドア″である。
ツェッペリンのアルバムとしては、前作の“プレゼンス″や“フィジカル・グラフィッティ″と較べると必ずしも評価は高くないが、毎年、夏疲れと一瞬の秋風が吹くこの時期が来ると、あの日を思い出す。
中学からツェッペリンは聞いていたが、レス・ポールを弾き、ブートまで聞くようになってからの私にとって、初めての、そして最後の、彼らの新作だった。
未だに、「スケールの大きな」アルバムだと思う。だからこそ、未だにこの時期が来るとあの夏を想うのだと思う。
“プレゼンス″のような緊張感はない。曲にバリエーションがある、と言っても“フィジカル・グラフィッティ″のようではない。私なんか、“イン・ジ・イブニング″から“サウス・バウンド・サウルス″の流れは4枚目の“ブラック・ドッグ″の流れを連想するが、後者が異なるのは音が抜群にいいことと、それからボーカルとギターが引っ込んだことだ。
このアルバムの評価が今一つなのは、よくジョン・ポール・ジョーンズ主導だから、とか言われるが、直接的には以前のような超人的なハイ・トーン・ボイスに対峙する超絶(?)ギター、ではないところに帰結するのではないだろうか。
それは“プレゼンス″で極めたのかも知れない。…“プレゼンス″より、時間もお金もかかっているのに。
ギターは以前のようにボーカルまたはドラムスまたはベースを追撃したり、あるいは率いたりするのではなく、どちらかと言うとよりアンビエントな役割を果たしている。何となーくロバート・プラントのその後のソロ・アルバムに近いテイストも感じる。
キー・ポイントは、“ウエアリング・ティアリング″のようなもろロック の秀作を収録しなかったことだ。実は79年のネブワースで披露して、併せてリリースも予定していたから、と言われているが、結局アルバムの持つコンセプトにしっくりこなかったのだろう。“サウス・バウンド・サウルス″を優先したのは、プラントだろう。
このアルバムの後ペイジは、「ジョン(ボーナム)とは、次はもっとロック色の強いものをやろうと話していた」と言っている。プラントやジョーンズとではないところがミソだ。
相次ぐ不幸に見舞われたボーカルの意向を尊重したアルバムだったが、翌80年にバンド・メンバーは髪を短くして、初心に帰って“トレイン・ケプト・ア・ローリン″でショウを始めている。その矢先、ジョン・ボーナムの死でバンドは終わった。
ツェッペリンの12年は、ちょうど私の6・3・3に当たる。ひょっとしたら、このアルバムへの思い入れは、私のそんなノスタルジーなのかもしれない。
さらに11年後、ネブワースで因縁の曲を演奏するPP。何思う。
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