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2009年3月

2009年3月22日 (日)

妄想竹。

Trio
追加して、「パンダコパンダ」には、どうしても釈然としないことがある。

パパンダはミミちゃんのお父さんになり、ミミちゃんはパンちゃんのお母さんになってあげるパラドックスである。パパンダからすれば、ミミちゃんもパンちゃんも子供であり、姉弟関係となる。あるいはパンちゃんからすれば、パパとミミちゃんは夫婦関係ということになる。
先の特典映像で高畑監督もその点に触れており、「2作目から見た人は、パンダと女の子の間にパンダの子供がいて、あれっ、と思う」といったことを確か話していた。

物語において、このパラドックスに触れる部分はない。ミミちゃんがパパやパンちゃんと一緒に寝るわけでも、お風呂に入るわけでもない。一作目のラストでミミちゃんがパパの帰りを待っていたりするのを見ると、結局役割よりも「家族」ごっこに重点があり、二作目は全編仲良し三人(匹)な感じになっている。

だがしかし、先の高畑監督の発言も踏まえて本作を今見ると、実に確信犯的にこういった設定を置き、見る者を物語に引き込んでいるのではないか、という気すらする。
「パパは…パパは抱っこもしてくれるんだよ…」とミミちゃんが照れながら言うシーンは、エロい。私自身が過剰反応ではないことの証として言わせて貰えば、このシーンは本来、要らない。「私がパパになりましょう」と言われて天井で頭を打つほど喜んだのだから、ここは子供らしく「わーい!」と叫んでパパに抱きつけば健康的なものを、こんなことをわざわざ主人公に一旦させる。
私がどうしてもナウシカやラピュタが…というか宮崎作品が好きになれないのも、この辺の過剰さにある(演出的には、ただ飛び付くよりも遥かに良いのかも知れない。)。

結婚して子供が出来た夫婦の多くは、互いに「パパ」「ママ」と呼び合う。そう言えば、照れながら「ミミコ」と呼ばせる件もあったかもしれない。つまり制作としては、仮想「親子」ではなく仮想「夫婦」なので、やっぱり例の件は確信犯である。子供目線で見た夫婦の男女関係を暗示している。

甘ーい子供向けのお菓子に、実はたっぷりリキュールが使われていた、という感じである。ハイジは知らないが、少なくともカリオストロには同じアルコールの香りがする。
あまり妄想を垂れ流すとファンの方から厳しいお叱りを受けるので、これぐらいにします。すみませんでした。

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2009年3月20日 (金)

テイスト。

味には、「うまい」「まずい」しかないのだろうか。

外食が不況と言われて久しいが、「気持ちよく食事ができる店」というのがあると思う。スナックなんかほとんど、出されるものは「うまい」と感じてしまうからその部類に入るし、マクドだって、煩わしくないから居心地がいい、ということがあるかもしれない。

あそこのラーメンが旨い、と言われても困る。その佇みに居心地を感じないと、味を評価することができない。正当かどうかは別として。

だから夜景の見える店、というのが味は二の次であるのは当たり前として、ラーメン店には普通眺望を求めないのだから、汚いなら汚いなりの居心地を意識して欲しい。(ラーメン店が須らく汚い、と言っているわけではない。)

実名を挙げたほうがわかりやすければ、旧大勝軒や東京ラーメンなんかは、寧ろ「古色」と言うに相応しいかもしれない。

今はどうか知らないが、中華街の某店なんかはいつも狭い店で家族ゲンカをしている。というかお父さんが言われっぱなしである。
随分前にネットでも「料理は美味しいんだけど…」ていう投稿を見て笑ってしまった。だがしかし、それが居心地いいのである。まさか人のケンカが居心地いいとは。
虎ノ門の、某イタリアンでもそうである。名物ママがいて、しょっちゅう店員に怒鳴ったり、無理言ったり、時には客を説教したりする。
先の中華にせよこのイタリアンにせよ、出される料理の味は須らく「温かい」。ママがいなかったりすると、どうしたんだろう、と思う。料理を食べに行ったのに。

久しぶりに有名ラーメンの支店に行った。オープン当初は札幌本店からスタッフが来ていて、今まで食べたことのない感動を味わった。その後も何度か行ったが、久しぶりに行くとあれっ、と思った。店内ががらがらなのだ。かつては行列だったのに。案の定、味もサービスも落ちていた。もう行かない。
これだから食べ物商売は怖い。私は同じ店に何度も行くほうで、最近は店を出る時、明確に「また来よう」あるいは「もういいな」と自己確認するようになっている。

味は単体で存在するものではなく、行列に並んだ時の店員の気配りや、美味しいものを出そうとする熱意や、居心地の良さや、「感動」というと仰々しいけれど心を震わせる何かのことを指すに違いないと思うのだが、如何だろうか。

(写真と本文は一切関係ありません)
Hungrytiger_2

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2009年3月15日 (日)

まだまだ

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表三郎師の「問いの魔力」をやっと入手した。

ネットでは、サンマーク三部作(「答えが見つかるまで考える技術」「日記の魔力」と本書)では、一番内容が尻切れトンボだとか、期待に反するとか書かれていたが、私はこれは師の相当の力作だと感じている。なぜならこの著は一見、哲学思想の紹介書のような体裁を取ってはいるが、実はそうではない。 タイトル通り、「問い」についての書である。「問う」とはどういうことなのかが書かれている。ここを見誤って紹介書と読んだ人には、極めて満たされない気持ちになるだろう。マルクスについても、ヘーゲル批判についてのみ4ページしか割かれていない。

師は論文等は書いてこられたと思うが、一般書の出版としては「答えが見つかるまで」が初めてかと思う。本当に待ち望んだ書であったが、出版を待ち望むと同時に、師は何を語るのか、ということに強い関心があった。
満を侍して発刊された「答えが見つかるまで」は、すでにタイトル自体がメッセージでもあり、続く第2作も本作も、内容はこのメッセージを踏襲している。 問いの立て方と深め方の論理を読者に読ませようとするものであるから、僅か200ページ程の単行本であるが、相当の読みごたえのある本だ。1作目、2作目は一日で読んだが、ほぼ同じボリュームの本書は三週目に入った。

師はそれぞれを極めて正確で、しかも平易に書いておられる。このことは師が語学教師であると思い起こしてもなお、凄い。また、1、2作目同様、理解を助けるために師の体験もそこここに引用されている。
最後まで読んだら、「終わりに」のところに、「中学生にも読めるような平易な本」、だが「人生を賭けて問うてきたものの集大成」と自ら書かれていた。 つまり、師は難解を排して本書を出されたが、それでもなお、スラスラと読めるものではなく、もっと言えばこれをスラスラ読める人は、読み誤っている可能性大である。

師の講義を一年間の受講した際、師の発言を書き留めていた。今も残しているが、当時メモしたものの、意味が不明だったものについてこの「問いの魔力」には、それらが多く網羅されている。数十年を経て理解が進むというか、自らをもってして理解に至らなかったことに気付くというか、複雑である。
この書を読んで、あらためて前2作を読み直そうと決意したし、今後の人生で何度も本書を読み直して…挑んでいかなければならないと決意した。

平易に書かれてはいるが、しかし、万人に推奨できる書ではない、と思う。冒頭の感想を持った方も、多分、師にかつて接した方だと思う。況や師に接したことのない読者は、この書をどう読み解くのか。師が一語一語を正確に用い、精緻に構成した「平易な」文章を。

最後に少しふやけたことを書いてみる。本書の「終わりに」で、「問いのプール」を深めること、それは則ち「人類の問いのプール」につながる、という描写に、私は師の、とても深い“愛″を感じた。そしてまたこの一節に私は「経済学・哲学草稿」の一節を想い…、…さもなくば君の“問い″は無力であり、一つの不幸である…。

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