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2009年1月

2009年1月26日 (月)

ア・モンスター・オブ・大相撲

昨日の大相撲初場所千秋楽の優勝決定戦は、瞬間視聴率30%を越えたそうだ。かくいう私も見ていたが、私は俄かファンではない。先週の中日も、デーモン小暮と輪島の解説が聞きたくて15時から鑑賞していた。

一昨年の夏あたりにサッカー騒動があったが、その時に思ったのは次のようなことだった。
「朝青龍、あなたが思うよりずっと、日本人は相撲を大切に思っているのです」。
しかし私は少し誤解をしていたようだ。当初このネタのタイトルは「朝青龍vs大相撲」で、それはスモウ・レスラーのチャンピオンが、かんてい流の相撲に挑んでいると捩ったが、やめた。
なぜなら実は彼はそれだけではなく、「大相撲」の非常に「大相撲」的なところ、「大相撲」の非常に良くない部分については、しっかり取り込んでいる。ある意味、最悪である。、「大相撲」の自家中毒である。彼は、紛れも無く「大相撲」が生み出したモンスターなのである。

取り組み前、白鵬コールをした観客たちは白鵬に勝って欲しかったのではなく、朝青龍に負けて欲しかったのである。強いからといって好き放題し、上には上下を弁えず、下には力ずくで上下を強い、様式美を軽んじ、具合が悪くなると病気を理由にする。そんなのが暫く休んでも勝利を手にする、なんてのはコツコツやってる人間からは救われないのである。
その一方で、人は朝青龍に勝って欲しい気持ちもある。その場合は、「大相撲」の負けとなる。古い因習やら、「かわいがり」やら、八百屋さんやら、内舘牧子やら、全部土俵の外に投げ出されたうえ、ダメ押しまでされる。
つまり、どっちが勝っても溜飲が下がる、というのが亀田内藤戦を引き合いに出すまでもなく、高視聴率の必須条件なのだ。

朝青龍にはこのBGMで決まり。こんな画像があったのですね。

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2009年1月24日 (土)

首領クリムゾンの宮殿

ここのところ音ネタが飛んでいるのでキング・クリムゾンの話などを。
まあ円広志も音ネタなんだけどね。

この歳になるとあまり広がりがなくて、同じアーティストを一定のローテーションで聴いているように思う。ビートルズ→フロイド→ツェッペリン→ディラン→クリムゾン→クラプトンまたはヘンドリックス→ビートルズ、ってな感じだろうか。基本的にフロイドやディランはダウナー系で、ツェッペリンを聴いている時は大概アッパー系だ。だからツェッペリンを暫く聴いていないな、と気付く時は、精神的にやや持ち直してきているバロメータになっている(底にいる時はそんなことにも気付かない)。

ではクリムゾンを聴いている時はどんな時かというと、これが単純には言えない。。“IN THE COURT OF CRIMSON KING″“STARLESS″“THELA HUN GINJEET″をそれぞれ聴いている時は違うかも知れないし、同じかも知れない。

自分にとって一番しっくりくる答えは、その昔仮面ライダーにショッカーの首領というのがいて、絶えずKKKみたいな覆面を被っているのだが、最期の戦いでライダーが覆面を剥ぎ取るとその下からは妖女ゴーゴンのような蛇だらけの頭部が現れる。それだけでも十分なのだが、ライダーは何を思ったか、さらにそれを剥ぎ取ると、まるでスペル星人のような、クエスチョンマンのような白く不気味な一つ目の頭部が現れる。つまり、“IN THE COURTOFCRIMSON KING″は蛇頭で、“DISCIPLINE″は白頭なのである。誰も分かってくれないだろうなあ、たぶん。

これまでの人生で、“IN THE COURT OF CRIMSON KING″と“LAYLA″の2曲は、初めて聴いた時から完璧な曲だった。“MARS″を聴いた時も驚いた。こんな“必然的な″曲があるのか、と。

未だに、ロバート・フリップの策略だ、とか言いながらも、喜んで騙されようとする人は多いのは、なぜなんだろうか?
たぶん、みんなスキヅォイド・マンなんだ、と思う。私を含めたわれわれに提示されるべきは、彼らによって周到に用意された、クリーンな音なのだろう。
私が初めてクリムゾンを聴いたのは、「新世代への啓示」発売時である。まさに私には「啓示」に外ならなかった、のである。
しかしその時すでにクリムゾンの実体はなく、過去のバンドと化していた。上記のとおり“IN THE COURT OF″は今もって私の人生の一曲であるが、本当にクリムゾンに撃ち抜かれたのは“DISCIPLINE″だった。

この出し抜き感。「神殿」でも「ブラック」でもない(「太戦3」はあったけれど)。レコード会社に折れてバンド名をクリムゾンにした、というのは有名だが、今もって「だからクリムゾンではない」というファンはかなり減っただろう。「宮殿」も「アイランズ」も、「アースバウンド」も「レッド」もクリムゾンの横糸で紡がれているのである。この、音に対する誠実さ。

またまた話がそれてしまった。ジミー・ペイジやキース・リチャーズのように何弾いているかわからない音の塊を聴いても、アドレナリンが出ている場合は大丈夫だが、出ていない時は疲れる。かと言ってディランでもあの独特のボーカルが疲れる場合もある。いずれにせよ、クリムゾンが聴きたいと思う時は、多少疲れている時に違いない。クリムゾンは私をいらつかせたりはしないのである。
気持ちが「蛇頭」の時、自らの姿にうちひしがれたい時、あるいは蛇頭を引きはがしてその下にある「白頭」に変身したい時、私はクリムゾンを聴くのである。

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2009年1月18日 (日)

だんだん‥

「『だんだん』がだんだんつまらなくなっている」なんて、できれば言いたくないようなオヤジギャグみたいである。
私にしては初期からよく見ているほうなのだが、SJのデビューから俄然つまらないことになっている。こういう業界の裏側が好きな私ですら退屈なのに、もともとの連ドラファン層は本当辛いのではないだろうか。

そもそも、私が初期からよく見たのは、藤村志保や夏八木勲といった渋い役者が良くて、マナカナの性格の良さ…そうな演技も好感が持てたからだ。京野ことみと男を別れさせるシーンなんか、秀逸だった。
ところが年明けからは、ほとんど出演者が演劇部レベルであり、円広志の芸能事務所幹部の演技は、何週にも亘る長~い「ノリ」にすら思えてくる。
ほとんど松江も祇園もシーンがなくなっている状態で、SJと石橋の若手5人に演技力を求めるのが無理だが、そこに円、Mr.オクレ、森久美子、せんだみつお。ひどい。強いて挙げれば正司花江だが、そんなに重要な役どころでもない。周辺の人間にもいろんな伏線を張ったのに、どれもそのままだ。

どっちみち芸能界で挫折し、めぐみは介護福祉士に、のぞみは再び芸妓に、石橋は伊武雅刀と離島で医者になり、弟はしじみ漁師になるけど、もう私たちは迷わない、だんだん、というオチだと読んでいるが、もうちょっと見せ場を作ってほしい。…円にツッコむとか…。

まったく関係ないけど再結成ウィンク。時の流れを感じますなあ。

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2009年1月 7日 (水)

服、着たる!

福袋を初めて買ったのは、いや正確には買ってないのだが、今から随分前のことだ。百貨店の、電化製品、食料品から衣料品まで入って一万円という福袋の列にさんざんならんだ揚句、すでに買い求めた人が中身を確認しているのを見て、退散したのであった。
決して妙なモノが入っていたのではない。当時独り暮らしだった私には、どれも持て余すに違いない、そう思ったのである。ああ、早くこういうものが重宝する暮らしがしたいものだなあ、そう思った私は、その夏に所帯を持った。思えば、あの買わなかった福袋こそ、本当の福袋だったのかも知れない。

所帯を持ってからも、なかなか初売りに並ぶ、ということはなかったが、近年は必ず、洋服一つは買っている。
よく「あんなものは売れ残りの詰め合わせ」だとか言う人がいるが、最近はなかなか侮れない。損をして福袋を出しているわけではなかろうが、「安かろう悪かろう」の時代は終わっており、どこもブランドイメージを大事にしている。バーゲンだって基本売れ残りだし、最近有名ブランドでは巧妙に「バーゲン用商品」を陳列しているところもある。

だから、要は商品を選べるかどうかなのだ。「モノの値段は買う側が決める」という商原則を逸脱しており、古くから商人の街であった大阪のデパートでは、中身を確認されたと思しきビリビリに破られた福袋が売れ残っているのを見かけたものだ。

最近はあまり見かけなくなったのは、関西人もようやく福袋の「もうひとつの」楽しみ-たぶん、“運だめし″-に気がついてきたのだろうか。余談だが、最近は関西でも整列乗車が浸透してきている一方、都内のマナーが低下しているように感じる。

さて、私の福袋の最大の楽しみは、実は一番目の楽しみの裏返しになるのだが、「運に任せたコーディネート」というのがある。最近自分で服を選んで買うのが面倒になった、というのもあるが、ふと、自分が好きなショップに立ち寄って、いくつの商品の中からいくつの商品に目に留め、いくつの商品を手に取り、いくつの商品が自分のセンスやサイズに合致して一つを選ぶのかを考えた時、サイズとブランドだけしか指定していない福袋の中の商品は、きっと最初のほうで落選した商品なのだろう。つまり、通常決して袖を通すことのない商品なのである。そのことが貴重、と考えるかどうかは人それぞれであり、自分が気に入ったものしか身に付けたくない、という人もいるだろう。
私は自分のセンスを全く信じていないし、福袋の商品に袖を通して初めて、あ、こんな色やスタイルも、結構イケるんじゃない?という“発見″もある。つまり、福袋を“買う″ことが冒険なのではなく、“使ってみる″ことが私にとって冒険であり、このあたり、ブランドの信頼(ヘンなものは置かないだろう)に依るところも大きいとは思う。

それにしても、今年は冒険が過ぎた。信頼できるデパートのノー・ブランドだったが、白のコートに赤のセーターって…。品質はすごくいいのだけれど…。

ちと見にくいが左下が赤のハイネック。これで1万円てどう?
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