対岸のPOP
2年越しで読みたいと思っていた角田光代の「対岸の彼女」を読んだ。
読んで、この小説のキャッチコピーと内容にすごくギャップを感じた。
《30代、既婚、子持ちの「勝ち犬」小夜子と、独身、子なしの「負け犬」葵。性格も生活環境も全く違う二人の女性の友情は成立するのか!?「負け犬」という言葉が社会的に認知されたいま、ついに書かれるべくして書かれた小説が登場しました!
独身の女社長・葵と、夫と子供を持つ主婦の小夜子は共に三十四歳。性格も育った環境も違う二人の女性に、真の友情を築くことはできるのか――。働く女性が子育て中の女性と親しくなったり、家事に追われる女性が恋愛中の女性の悩みを聞くのは難しいもの。既婚と未婚、働く女と主婦、子のいる女といない女。そんな現代女性の“心の闇”がリアルに描かれます。》(文芸春秋 内容紹介より引用しました)
他の書籍紹介でもそんなに変わらない。私の読み間違いがあるのかもしれないが、少なくとも立場の違う女性の間に存在するものがテーマになっている、と解せる。そんなことは書かれていなかった、というつもりはないのだが、私にとってはそれは小説の「仕掛け」であり、もっと大切なことが主題であり、それが感動させるのではないか、と思うのだ。
「対岸の彼女」発表のちょうど10年前、芥川賞候補となった「もう一つの扉」は、本作と非常に共通するモチーフがあるように思う。
「もう一つの扉」の主人公のOLは幼なじみと2人でルームシェアを行うが、幼なじみが出て行ったあとも数人の女性とルームシェアをし続け、ある日その女性が失踪する。女性を訪ねて「眼鏡男」が訪ねてくるが、主人公は失踪した女性のことをほとんど知らない。「眼鏡男」は女性の帰りを待つべく、女性の持ち物が残された部屋で生活を始める。
主人公は幼なじみの彼と寝たり、また現在も会社の友人の彼氏とつきあっていたり、失踪した女性の服を着て出社したりする。ふとしたことから頻繁に葬式が行われる寺のすぐそばに引越すが、「眼鏡男」も女性の荷物と一緒に引越してくる。そこは、夜の9時になると決まって、どこからか「おーい、おーい」と人を呼ぶ声が聞こえる。
会社は欠勤しがちになり、つきあっていた彼氏に別れを告げられ、そして「眼鏡男」も女性の持ち物をすべてフリーマーケットで処分し、主人公のアパートを何も言わずに去る。
ラストシーンでは、一人「おーい、おーい」と叫ぶ声を追って川に出るが、その対岸には「眼鏡男」らしき男性ともう一人の歩く姿が見える。主人公は声を限りに叫ぶ。おーい、おーい。彼らは振り向かない。何度も何度も叫ぶ。おーい、おーい。
この話は「存在」をテーマにしている。幼なじみにはじまったルームメイトはどんどん縁が薄くなる。どこの誰なのかもわからなくなっていく。会社でも、最近入った女子社員が退社しており、名札のなくなったロッカーが空いている。欠勤が続く自分も、いずれそうなるのではないかと漠然と感じている。幼なじみの彼も、今の彼氏も、そして袖を通したルームメイトの服も「人のモノ」であり、ある時間、空間や何かを共有したとしてもそれはいつまでも続くものではなく、ある日突然、まるでそれはいままでの存在すらなかったように、主人公だけを置いて忽然と消えてしまう。
存在した証について、毎日寺の葬式の前を通るのは象徴的である。此岸から彼岸へ、どれだけ声を振り絞っても届かない川の向こうのように、自分を置いて‥自分の存在がなかったように、時は流れていく。
「対岸の彼女」のラストでも、小夜子は空想をしている。対岸の2人の女子高生がこちら側の女子高生姿の自分に気付き、手を振り、何か言っている。何を言っているかわからないが、橋を指差し、お互いに橋に向かって駆け出す。
「もう一つの扉」と「対岸の彼女」、この二つの作品の相違点は、まさにここなのかもしれない。「対岸の彼女」の対岸にあるのは、「もう一つの扉」にある「自分と関わる他人」だけではなくて、「過去の自分」も対岸に置いている点にあるのではないか。
重大な役割を果たしているナナコの存在(現在の葵が昔のナナコのようであり、昔の葵が小夜子のようであるのも、“仕掛け”だと思う)や、小夜子の予備校時代の友人、あるいは葵と小夜子を取り巻く多くの人々以外に、例えば小夜子ならばOL時代の自分、公園デビューで悩む自分、葵ならばいじめを受けていた自分、ナナコといた自分、人と関わることに疲れていた自分。しかし葵は「信じる」こと、小夜子は「選んだ場所に自分の足で歩いていく」ことを決める。
そして葵は「まったく別のルートからいつか同じ丘の上で、着いた着いたと手を合わせ」、小夜子は上記のとおり橋に向かって走りだすことを夢想する。
それは、「勝ち」「負け」や「友情の成立」が主題ではなく、ましてや「立場の違う女性の悩みを聞く難しさ」や「現代女性の“心の闇”」の解決ではないのだろう、と思う。でも著者自身がこういった書籍紹介を認めておられるのだろうから、やはり私の誤解なのだろうか。
そのことはさておいて、たぶん、それまでの角田作品と比べても、「存在の喪失」から一歩踏み出した、静かで明るい予感がある。おすすめします。
2年前、毎週東京を往復していた頃、新幹線の中では角田光代と重松清ばかり読んでいた。
| 固定リンク
「書籍・雑誌」カテゴリの記事
- Separation(2010.06.12)
- まだまだ(2009.03.15)
- 対岸のPOP(2008.12.21)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント