SICK AGAIN
ツェッペリンに特に造詣が深い、という訳でもないが、今から10年ほど前に、もし自分がHPを立ち上げるとしたら、ツェッペリンについて何か書きたいと漠然と思っていた。
ツェッペリンのブートに2年ほどどっぷりと浸かり、枚数も200枚を有に越えた頃だった。
しかしその後、リンクを貼らせていただいているmrcmsさんの“BURN THAT CANDLE″を拝見した時、あ、やられた、と思った。以降今日に至るまで、私の知る限り、あのサイトを凌駕するZEPサイトは存在しない。枚数で凌駕しているサイトはいくらでもある(実際、少くとも6年は更新されていない)が、要はその分析の視点なのだ。
サイトのイントロダクションとして立ち上げ理由を書いておられるが、問題意識として「はたしてこれは世間一般で言われているような名演(或いは稚拙な演奏)なのだろうか」「数々の疑問点を、自分自身の耳で確認し、払拭したかった」「Zep等身大の姿を知りたいのだ。そして Zepをまったく知らないロックファンでも判るよう、聴きやすいよう、正確に、正直に伝えたいだけなのだ。そういった、あらゆる面を敢えて指摘することで、彼らの体調、心境、心意気、熱意とかいったものを理解するための参考にしてほしい、と思っている」と書いておられる。
また、「個人的に重視していること」と断ったうえで、「それはジミーペイジの頭の中で鳴っている音だ。実際にプレイとして聴かれる音ではなく、本当は何を弾こうとしているのか。これが私にとっては重要ポイントなのだ。例えば「1975年アールズコート(24日)」でのライブと「1980年ブリュッセル」でのライブ。どちらがテクニック的に上か?と問われれば当然『前者』と答えるだろう。だが双方がまったく同等のレヴェル(例えば71年のテクニックくらい)でプレイされたと仮定するならば、いったいどちらのフレーズの方が魅力的であろうか?その辺に大いに興味があるのである。ジミーは一般的には、晩年枯れて行ったと言われているが、少なくとも彼の脳内で鳴っている音に関しては、そうとも言い切れないと思っている」
ズバリである。素晴らしい。
一時期竹本潔史氏の“BOOT POISONING″を定期購読していたが、音質やピッチ、カット箇所の分析などは他に類を見ないものではあったが、私が知りたかったこと、他人に伝えたかったことのすべてが“BURN THAT CANDLE″にあった。
ZEPサイトのみならず、すべてのサイトのうちで、いつ削除されても困らないよう、私がファイル保存しているのはあのサイトだけだ。
私からすれば、レッド・ツェッペリンのライブは73年のMSG、あるいは75年のアールズ・コートである意味一旦終わっており、77年以降はリバイバル・コンサートだと思っている。じゃあ、「エディ」(専門用語ですが)は どうなんだ、と一喝される方もいらっしゃるかも知れないが、私の回答は“BURN THAT CANDLE″に書いてある。
いわんや、昨年O2で行われた再結成ライブをや、である。ツェッペリンの魅力とは何か。人により異なるとは言え、各人が卓越した技量を持ち、さらにそれらが融合した時に発する他に類を見ないダイナミズムと繊細さの両立。
辛うじてスタジオ・アルバムではそのクオリティを保ったが、77年以降のライブは総じて酷い。声が出なくなったにも関わらず声が高かった頃の歌を歌い続けなければならないボーカル、創造性が枯れたか、あるいは上記のとおり表現すべき指が衰えてしまったギター、ムラッ気の多いドラム、実力を発揮するタイミングがなくなってしまったベース、ピアノ。取り返そうとするも冗長になり、聞いているオーディエンスが辛くなるような演奏、というのはどうなんだろう(総てがそうであるわけではないが)。
そういった反省からか、80年のライブはグッとタイトになり、インプロの長い曲は外されている。ロッテルダムなんか好きな公演だが、インプロの出来ないツェッペリン、と言うのも魅力半減だ。つまり、ボーナムが死ぬ前に、元々の魅力は無くなっていたのである。
口説いが、それでもアウトドアやコーダは十分に魅力的である。
さてさて、今回のネタは昨年のO2コンサートで気を良くしたメンバーが、大規模ツアーに打って出ようとしているといったニュースがいろいろ形を変えて報道されていることについて、何か書きたいと思ったのだが、書く順序が逆になってしまった。
頼む。やめてくれ。伝説を書き換えないでくれ、ジミー。もう「天国への階段」は弾かなくていいから、スタジオでシコシコとソロ・アルバム作ってくれ。枯れたギターマンになってくれ。カバペジ、ペジプラ、ブラクロとZEPは十分聞かせてもらった。もうわかった。以上。
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