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2008年10月

2008年10月28日 (火)

SICK AGAIN

ツェッペリンに特に造詣が深い、という訳でもないが、今から10年ほど前に、もし自分がHPを立ち上げるとしたら、ツェッペリンについて何か書きたいと漠然と思っていた。
ツェッペリンのブートに2年ほどどっぷりと浸かり、枚数も200枚を有に越えた頃だった。

しかしその後、リンクを貼らせていただいているmrcmsさんの“BURN THAT CANDLE″を拝見した時、あ、やられた、と思った。以降今日に至るまで、私の知る限り、あのサイトを凌駕するZEPサイトは存在しない。枚数で凌駕しているサイトはいくらでもある(実際、少くとも6年は更新されていない)が、要はその分析の視点なのだ。

サイトのイントロダクションとして立ち上げ理由を書いておられるが、問題意識として「はたしてこれは世間一般で言われているような名演(或いは稚拙な演奏)なのだろうか」「数々の疑問点を、自分自身の耳で確認し、払拭したかった」「Zep等身大の姿を知りたいのだ。そして Zepをまったく知らないロックファンでも判るよう、聴きやすいよう、正確に、正直に伝えたいだけなのだ。そういった、あらゆる面を敢えて指摘することで、彼らの体調、心境、心意気、熱意とかいったものを理解するための参考にしてほしい、と思っている」と書いておられる。

また、「個人的に重視していること」と断ったうえで、「それはジミーペイジの頭の中で鳴っている音だ。実際にプレイとして聴かれる音ではなく、本当は何を弾こうとしているのか。これが私にとっては重要ポイントなのだ。例えば「1975年アールズコート(24日)」でのライブと「1980年ブリュッセル」でのライブ。どちらがテクニック的に上か?と問われれば当然『前者』と答えるだろう。だが双方がまったく同等のレヴェル(例えば71年のテクニックくらい)でプレイされたと仮定するならば、いったいどちらのフレーズの方が魅力的であろうか?その辺に大いに興味があるのである。ジミーは一般的には、晩年枯れて行ったと言われているが、少なくとも彼の脳内で鳴っている音に関しては、そうとも言い切れないと思っている」
ズバリである。素晴らしい。

一時期竹本潔史氏の“BOOT POISONING″を定期購読していたが、音質やピッチ、カット箇所の分析などは他に類を見ないものではあったが、私が知りたかったこと、他人に伝えたかったことのすべてが“BURN THAT CANDLE″にあった。
ZEPサイトのみならず、すべてのサイトのうちで、いつ削除されても困らないよう、私がファイル保存しているのはあのサイトだけだ。

私からすれば、レッド・ツェッペリンのライブは73年のMSG、あるいは75年のアールズ・コートである意味一旦終わっており、77年以降はリバイバル・コンサートだと思っている。じゃあ、「エディ」(専門用語ですが)は どうなんだ、と一喝される方もいらっしゃるかも知れないが、私の回答は“BURN THAT CANDLE″に書いてある。

いわんや、昨年O2で行われた再結成ライブをや、である。ツェッペリンの魅力とは何か。人により異なるとは言え、各人が卓越した技量を持ち、さらにそれらが融合した時に発する他に類を見ないダイナミズムと繊細さの両立。
辛うじてスタジオ・アルバムではそのクオリティを保ったが、77年以降のライブは総じて酷い。声が出なくなったにも関わらず声が高かった頃の歌を歌い続けなければならないボーカル、創造性が枯れたか、あるいは上記のとおり表現すべき指が衰えてしまったギター、ムラッ気の多いドラム、実力を発揮するタイミングがなくなってしまったベース、ピアノ。取り返そうとするも冗長になり、聞いているオーディエンスが辛くなるような演奏、というのはどうなんだろう(総てがそうであるわけではないが)。

そういった反省からか、80年のライブはグッとタイトになり、インプロの長い曲は外されている。ロッテルダムなんか好きな公演だが、インプロの出来ないツェッペリン、と言うのも魅力半減だ。つまり、ボーナムが死ぬ前に、元々の魅力は無くなっていたのである。
口説いが、それでもアウトドアやコーダは十分に魅力的である。

さてさて、今回のネタは昨年のO2コンサートで気を良くしたメンバーが、大規模ツアーに打って出ようとしているといったニュースがいろいろ形を変えて報道されていることについて、何か書きたいと思ったのだが、書く順序が逆になってしまった。

頼む。やめてくれ。伝説を書き換えないでくれ、ジミー。もう「天国への階段」は弾かなくていいから、スタジオでシコシコとソロ・アルバム作ってくれ。枯れたギターマンになってくれ。カバペジ、ペジプラ、ブラクロとZEPは十分聞かせてもらった。もうわかった。以上。

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2008年10月18日 (土)

ファイナル・カットの賛否両論

この間のネタで風呂井戸さんからコメントをいただいた。御礼のレスだけではあまりにも勿体ないので、ネタにさせていただきます。

ともかく、コメントありがとうございます。風呂井戸さんのお名前は存じ上げておりましたので、何かフロイド絡みで検索していた際にブログを拝見したか、それとも大昔「隔離部屋」でお会いしていたか、だと思います。
いずれにせよ、私のような木っ端者のネタに造詣が深い方からコメントをいただいたこと、感激いたしました。

※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※

さて、ここからは風呂井戸さんに宛てたものではなく、いつもの独り言と言うか、寝言と言うかになるのだが、先の「“LET IT BE″と言ってるじゃないか」に書いたとおりレコードはレコードとして評価されるべきで、制作背景を持ち込むべきでない、というのが私の持論だ。
その点では“LET IT BE″と“THE FINAL CUT″は似ているかも知れないし、「バンドが制作したものとは認めない」といった強い排他性が現れる点ではこのアルバムが凌駕する、と思う。

ま、私にとってはどちらでもいいことだが、「いいアルバムならいい」という命題が、「フロイドはいいアルバムを作る」→「いいアルバムではない(主観的に)」→「だからフロイドではない」という論理構成を見るのである(2ちゃん)。また、「ザ・ウォールの終章」だとか、「ロジャーの私的アルバム」(アニマルズだってウォールだってそうじゃない?)と言った発売当時のレッテルはまだ生きており、このアルバムを議論する際にも必ずそういった修飾節が使用されることは、個人的には違和感がある。たとえ本人たちがそう発言していたとしても、である。
ググるとフロイド・ファンのサイトには哲学的なものが多いが、私はただ「いいアルバム」の話がしたいのである。制作背景を否定しつつ、以下訳あって制作背景を一部書くが、どうぞお許しください。

ロジャーはこのアルバムの制作にあたり、他のメンバーに対し「とても個人的な作品だけれど、参加してくれるかい?」と言った、らしい。ところで、その一個前(3年半前になるが)“THE WALL″の制作の際には、「ロジャーから“THE WALL″ともう一つ(たぶん“THE PROS AND CONS OF HITCH HIKING″)を示された」と、“THE WALL LIVE″のライナー・ノーツにギルモアが書いており、79年にはこの二つを比べて“THE WALL″を選んだことが推測される。

そう言われて、今、あらためて“ヒッチハイク″を聞くと、“THE FINAL CUT″よりもむしろ“THE WALL″に近い感じがする。クラプトンのギターでずいぶん印象が変わっているが、これをもしギルモアが弾いたら、と想像すると、立派な“THE WALL″の姉妹作に仕上がったような気がする(テーマは違いますが)。
脱線するが、“AMUSE TO DEATH″を聞くと、ギルモアはクラプトンよりジェフ・ベックに近いのかも知れないな、とすら思う。

ということは、その後“THE FINAL CUT″の草稿が上がった時、すでに手元には“ヒッチハイク″はあったのに、それをさておき“THE FINAL CUT″の方をピンク・フロイドの新しいアルバムとして世に出そうとしたことになる。
例えばヒッチハイクが煮詰まっていたとか、前のアルバムから3年も経ってしまっていたとか、考えられる制作上の問題やビジネス上の理由もあったかも知れないが、ロジャーはメンバー達の力を「借りて」、このアルバムを完成させようとした。
ここに私は、ロジャーが私的世界の完成のためにバンドを私物化したというよりは、ヒッチハイクよりもフロイドの名を冠するに値する作品を出すために尽力し、またこの作品に対して強い自信を持っていたのではないか、と推測するのだ。
それも「私物化」と言うのかも知れないが‥。

“僕が自分の暗い部分を見せても 今夜強く抱きしめてくれるかい?″

“僕が打ち解けて自分の弱いところを見せたら どうする?″

“暴露話をローリングストーン紙に売って 子供たちも連れ去り 独りぼっちにするかい?″

“そして微笑みを浮かべてそっと電話を切るのかい?″

“僕を病院に送る?それとも家に連れて行く?″

“湧き起こる感情に任せて カーテンを引き裂いたのは″

“震える手でカミソリを握り その瞬間が来た時…電話が鳴って 僕はそんな勇気を持っていなかった…から″

このアルバムは、ホロフォニックと相俟って、今は亡きマイケル・ケイメンの力が大きいと思う。
ロジャーという人は、詩世界やメッセージが取り上げられることが多く、歌唱の特異さも手伝ってあまり言及されないが、コーラスやリズムパートを聞くと、実は取り組む音楽の振り幅は広い、と感じている。アレンジ一つで印象が大きく異なるのかもしれない。
マイケル・ケイメンとのコラボレートにより、、ロジャーのボーカルのみならずギルモアの吠えまくるギター、メイソンのドラムまでよりドラマティックに仕上げている。

“The Post War Dream”“The Gunner's Dream”の美しさ、“The Fletcher Memorial Home”やタイトル曲のドラマティックさ、その余波で“Not Now John”“Two Suns In The Sunset”まで壮大だ。

ロジャー自身の疎外感や、父のことや、政治的主張も取り上げられるのだが、それは以降のソロでも同じことであるし、そのことを歌いたいがために歌っているというよりは、彼の創作に必要なことではないのだろうか。彼は最近オペラも書いているが、ストーリーのないオペラ、というのが存在しない(と思うが)ように、彼の創作方法なのだろう。ジョン・レノンが“How Do You Sleep?”を書いた理由について、「そんなに悪感情を持っていたわけではない。歌を作り出すのにポールへの不快感を利用した‥ということにしておこうじゃない?」と答えているが、これは極めて示唆的だな、と思う。
本人も、エコーズ以来テーマは変わっていない、と言っている(ようである)。

このアルバムや、「対」がピンク・フロイドなのか、そうではないのかを峻別する必要がどこにあるのだろうか。私は彼らのソロ・アルバムまで含め、このアルバムを絶賛する。デッサンをロジャーが書き、色を他のメンバーが塗り(しかもその色は半端なく力強い)、マイケル・ケイメンが額縁に入れた。確かに彼のデッサンは後年どんどん力強く、みんなで書いた絵とは言えなくなってきたかもしれないし、絵を完成させるためにメンバーが乱暴に扱われたかもしれない。サイケデリックでもなくなっていたかもしれない。
しかしロジャーにしか書けないデッサン、ギルモアにしか塗れない色、メイスンにしか付けられないハイライトで書かれた絵は、ひょっとしたら本人たちが予想した以上に、「ピンク・フロイド」だったのかもしれない。

‥And no-one kills the children anymore.

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2008年10月 1日 (水)

あなたがここにいてほしい

露鵬のネタを書いたら、なんとリック・ライトが亡くなってしまった。どうぞ、成仏なさってください。南無阿弥陀仏。

ピンク・フロイドについては、書きたいことがいっぱいある。しかしリックについては…正直、よくわからない。浮遊感が好き、という人もいるが、フロイドが好き、とどう違うのか。

ある時期、暇にあかしてロジャーの“IN THE FRESH″と“P・U・L・S・E″、ついでに“THE WALL LIVE″を聞いて、どれがフロイドか、なんて考えていた(バカ)。

2005年、誰もが想像しなかったLIVE8の再結成を見て、ああ、やっぱりこれがフロイドなのだ、といたく感心した。ロジャーのソロや、ギルモア・フロイドに感じていたことが氷解した。

私がロジャーを好きなのは、ユーモアのセンスがあること。彼のどのアルバムも、最後にはほんの少し希望を提示している。

ギルモアは、クラプトンに憧れていたらしい。だからロジャーがツアーにクラプトンを起用したときは、ギルモアは本当に傷ついたらしい。
しかし私が、ギルモアをクラプトン以上に評価するのは、“HAVE A CIGAR?″や“SHEEP″、“ANOTHER BRICK IN THE WALL PARTⅡ″“YOUNG LUST″“NOT NOW JOHN″のような一転攻撃的なギターが弾けることだ。そういうギタリストを、私は他にジミー・ペイジしか知らない。

「鬱」は素晴らしく、その世界は紛れも無いフロイド・ワールドだったが、ロジャーがいつも提示していた「希望」は見当たらなかった。だからギター・ソロが出口となっていた“LEARNING TO FLY″と“ON THE TURNING WAY″しか聴かなくなってしまった。
ちなみに「対」に至っては、“TAKE IT BACK″のギターしか聴かなかった。ギルモアのソロ・アルバムとどう違うのか?

ワサビが効いていないのだ。LIVE8の“WISH YOU WERE HERE″I“COMFORTABLY NUMB″を聴けばわかる。決して上手いとは言えないロジャーのヴォーカルは震え、語りかける。それはシリアスでありながらどこかユーモラスだ。その背後に卓越した演奏が奏でられ、いよいよギルモアのギター(場合によりリック・ライトやホーン・セクション)が突き抜ける…のがフロイドだ、と思うんだがな、私は。

ちなみにニック・メイソンに触れなかったが、とても個性的なロック・ドラマーで、チャーリー・ワッツを彷彿とさせるようなテイストを感じるし、彼が叩くことでフロイドがを少人数ロック・バンド然とするところがいい。

それにしても、「エコーズ〜啓示」(ベスト)は素晴らしい。フロイドの各時代の曲が違和感なく並んでいるが、のみならずこれがオリジナル・アルバムのようだ。
シドに敬意を払い、ロジャーの「ファイナル・カット」や「虎」に敬意を払い、「鬱」や「対」にも敬意を払っている。コンプリート・ベストである。落涙を禁じ得ない。
ちなみにカミング・アウトしておくが、私が最も愛しているアルバムは、「ファイナル・カット」です。

…こんな私に故人を論評することなんて、できないですよね。

風雨の中、鬼と化すギルモア。ベスト・アクトの一つ、89年ネブワース、コンフォータブリー・ナム。

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